女子校時代が一番楽しかった

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序章 録音の赤いランプ

録音機の赤いランプがついたとき、ミサさんは背筋を少し伸ばした。

九十歳。

そう聞けば、もっと小さく、もっと遠くに座っている人を想像するかもしれない。
けれど、目の前のミサさんは違っていた。
椅子に腰かけた姿はまっすぐで、声にもまだ張りがあった。
言葉を選ぶときは少し間があくが、言い出したら迷わない。
思ったことを、ちゃんと言葉にする人だった。

部屋の中は静かだった。
机の上には小さな録音機が置かれている。
その横に、メモ帳とペン。
窓の外では、昼の光がゆっくり動いていた。

インタビュアーが、少し姿勢を正して聞いた。

「日本の戦中戦後を、小学校、中学校、女子校と経験されたことについて、今、思われることはありますか」

ミサさんは静かに言った。

「いらない経験ですね」

声は大きくなかった。
けれど、その一言は、部屋の中にまっすぐ落ちた。

「戦後の日本が貧しくて、物がなくて、それに困ったという経験は、いらない経験ですね。楽しいところなんか、全くありませんでした」

ミサさんは、そこで少し息をついた。

「貧しい。ひもじい。そういうことだけでした」

インタビュアーは、ペンを持つ手を止めた。

その言葉の中には、説明がなかった。
どの爆撃がどうだったとか、どの町がどれだけ焼けたとか、そういう話ではなかった。

それだけで、十分だった。

ミサさんの目は、録音機の赤いランプを見ているようでもあり、その向こうの、もっと遠い場所を見ているようでもあった。

録音機の赤いランプは、ただ録音が始まったことを知らせているだけだった。

けれど、ミサさんの記憶の中には、別の赤があった。
此花の空に広がった赤。
爆弾が落ちた瞬間に見た赤。
燃え盛る町の赤。

その光のことを、ミサさんはまだ話していない。
けれど、その沈黙の奥に、もうそれはあった。

インタビュアーは、少し間を置いてから、もう一つ質問した。

「学生時代は、どの時代が一番楽しかったですか」

そのとき、ミサさんの表情が、ほんの少し変わった。

さっきまで遠くを見ていた目が、こちらへ戻ってきた。
口元に、照れたような笑みが浮かんだ。
それは、戦争の話をしていたときの顔とは違っていた。

「女子校時代が一番楽しかったですね」

ミサさんはそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。

「元気だったんですか」

インタビュアーが聞くと、ミサさんは肩を小さくすくめた。

「元気だった方だと思います」

そう言いながら、照れたように笑う。
まるで、あまり自分で言うことではない、とでも思っているようだった。

けれど、きっと元気だったのだ。

思ったことを言ってしまう。
黙って見ていられない。
困っている子がいたら、つい手を出してしまう。
そのせいで、喧嘩にもなる。

ミサさんには、そういうところがあった。

女子校時代。
市電に乗って通った日々。
厳しい校則。
おかっぱ頭。
服装検査。
遅刻にうるさい先生。
そして、いつも一緒にいた三人の友だち。

久美子。
百合子。
和枝。

中でも久美子とは、しょっちゅう喧嘩をした。

ミサさんは、録音機の前で笑っていた。

九十歳の顔に、少女のころの光が少し戻っていた。

ミサさんが「女子校時代が一番楽しかったですね」と言ったとき、そこにはただの懐かしさだけではなかった。

戦争で失われた時間のあとで、自分の足で取り戻した時間があった。
泣くことも、怒ることも、笑うことも、喧嘩することもできるようになった日々があった。

録音機の赤い小さな光の向こうで、ミサさんの記憶は、女子校の入学式の日へ戻っていった。


序章 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 最終章


第1章 入学式の日

女子校の入学式の日、ミサは朝から落ち着かなかった。

うれしいのか、緊張しているのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、いつもより早く目が覚めた。
布団の中でじっとしていられず、起き上がって、畳の上に置いてある制服を何度も見た。

新しい制服。
新しい鞄。
新しい靴。

どれも、まだ自分のものになりきっていないような顔をしていた。
袖を通すと、肩のあたりが少し硬かった。
鏡の前に立つと、そこにいる自分が、昨日までの自分とは少し違って見えた。

髪は、おかっぱだった。

学校の規則で、髪型にも服装にも厳しいと聞いていた。
遅刻などしたら大変だとも聞いていた。
だからミサは、いつもよりずっと早く家を出た。

市電の停留所には、同じような制服の女の子たちが何人か立っていた。
みんな、どこか少しよそいきの顔をしている。
胸を張っている子もいれば、母親の後ろに半分隠れるようにしている子もいた。

ミサは、母と並んで市電を待った。

春の朝だった。
空気はまだ少し冷たかったが、陽射しはやわらかかった。
町には、戦争が終わったあとも残った傷が、あちこちにあった。
焼けた跡。
まだ新しくない道。
板でふさがれたままの場所。
けれど、その朝の町は、少しだけ前を向いているように見えた。

市電が来る音がした。

レールの上を、がたん、がたん、と音を立てて近づいてくる。
ミサはその音が好きだった。
どこかへ連れていってくれる音だった。
今いる場所から、別の場所へ。
昨日までの自分から、少し先の自分へ。

市電に乗ると、窓の外の景色がゆっくり流れた。
工場の煙突。
商店の看板。
自転車で急ぐ人。
荷物を抱えた女の人。
朝の大阪は、もう動き出していた。

母はあまり多くを言わなかった。

「遅れんようにしなさい」

それだけ言った。

ミサは「わかってる」と答えた。
けれど、その声が少し大きかったので、母は横目でミサを見た。

「そんなに怒ったみたいに言わんでもええやないの」

「怒ってへん」

「怒ってるみたいに聞こえる」

「怒ってへんて」

それで母は、少し笑った。

ミサは、自分では普通に言っているつもりだった。
けれど、言葉が先に飛び出してしまうところがあった。
思ったことがあると、胸の中にしまっておけない。
それは昔からだった。

学校の最寄りで市電を降りると、制服姿の女の子たちが同じ方向へ歩いていた。
ミサもその流れに入った。

校門が見えた。

思っていたより大きかった。
門の前には先生が立っていて、入ってくる生徒たちを一人ずつ見ていた。
その視線だけで、ミサはこの学校が厳しいということを理解した。

背筋を伸ばした。
鞄を持つ手に、少し力が入った。

校門をくぐると、運動場には新入生が集まっていた。
誰もが、まだ誰の友だちでもない顔をしていた。
隣に立つ子を見ても、話しかけていいのか、いけないのか、わからない。
笑っている子も、笑い方が少し硬かった。

ミサは、受付で名前を言い、教室へ向かった。

廊下はぴかぴかというより、きちんと拭かれているという感じだった。
窓から入る光が床に長く伸びていた。
教室の前には、紙が貼られている。
名前を探して、自分の教室に入った。

その教室で、最初に目に入ったのが、久美子だった。

久美子は、自分の席の前で、鞄を開けたり閉めたりしていた。
何かを探しているらしい。
机の上には、ハンカチ、筆箱、式次第の紙、なぜか家から持ってきたらしい小さな包みまで出ている。

ミサは、しばらく見ていた。

久美子は、ひとつ物を持ち上げては首をかしげ、また置く。
次に別の物を持ち上げて、また首をかしげる。
その動きが、あまりにもゆっくりだった。

ミサは、とうとう言った。

「何を探してるの」

久美子は、驚いたように顔を上げた。

「あ……えっと……」

声もゆっくりだった。

「えっと、出席の紙……かな」

「かな、って何」

「たぶん、出席の紙」

「それ、そこにあるやん」

ミサは、机の端に置かれていた紙を指さした。
久美子は、その紙を見て、目を丸くした。

「あ、ほんまや」

「ずっと目の前にあったで」

ミサがそう言うと、久美子は少し顔を赤くした。

「見えてたけど、見えてへんかったん」

「どういうこと」

「そういうことあるやん」

「ないわ」

ミサは思わず言った。

その瞬間、久美子の頬がぷうっとふくらんだ。
それは、怒っているというより、拗ねている顔だった。
目元はやさしいままなのに、口だけがしっかり反抗していた。

「初対面やのに、そんな言い方せんでもええやん」

ミサは、少し言いすぎたと思った。
けれど、言った言葉は戻らない。

「ごめん。けど、そこにあったから」

「そこにあったんは、わかってる」

「わかってへんかったやん」

「今はわかった」

「今は、やろ」

「もうええ」

久美子は、さらに頬をふくらませた。
顔だけではなく、耳まで赤くなっていた。
まるで、頭の先からつま先まで、じわじわ赤くなっていくようだった。

その様子を、少し離れた席から見ていた女の子がいた。

百合子だった。

百合子は、上品な顔立ちをしていた。
座り方もきれいで、制服の襟も乱れていない。
けれど、決して気取った感じではなかった。
二人のやり取りを見て、困ったように、それでもおかしそうに笑っていた。

「まあまあ、入学式の日から喧嘩せんでも」

百合子がやわらかい声で言った。

ミサは百合子を見た。
久美子も百合子を見た。

百合子はにこっと笑った。

「私、百合子。ゆりちゃんでええよ」

その言い方があまりに自然だったので、ミサは少し拍子抜けした。

「私はミサ」

久美子は、小さく手を上げるようにして言った。

「久美子。くーちゃんて呼ばれてる」

「くーちゃん」

ミサが繰り返すと、久美子はまだ少しふくれたまま、うなずいた。

そのとき、教室の戸口から、はっきりした声がした。

「もうすぐ先生来はると思う」

三人が振り向くと、ひとりの女の子が立っていた。
背筋がまっすぐで、髪もきちんとそろっている。
手には小さな手帳のようなものを持っていた。

和枝だった。

「廊下で先生が話してはった。入学式の前に、席について静かに待つようにって」

言い方は少し硬かった。
けれど、冷たい感じではなかった。
ただ、決められたことをきちんと守りたい人なのだと、すぐにわかった。

ミサは、思わず聞いた。

「あなた、先生に言われたん?」

「聞こえただけ」

「それで、わざわざ言いに来たん?」

「言うた方がええと思ったから」

ミサは少し笑った。

「しっかりしてるなあ」

和枝は真面目な顔のまま言った。

「入学式から注意されたくないやん」

それは、その通りだった。

ミサは自分の席を探した。
久美子も慌てて机の上の物を片づけはじめた。
けれど、慌てているわりに動きが遅い。
百合子がそっと手伝い、和枝が「それは鞄、これは机」と指示を出した。

ミサは見ていられなくなった。

「くーちゃん、もう、それ逆やん。筆箱を包みに入れてどうするの」

「え、あ、ほんまや」

「ほんまや、やないわ。先生来はるで」

「急かさんといて」

「急がなあかんから言うてるんやん」

「ミサちゃんが言うから、余計にあわてるんやん」

「私のせいなん?」

「ちょっとだけ」

「ちょっとって何」

また始まりそうになったところで、百合子が笑いながら二人の間に入った。

「はいはい、入学式の日やから、今日はここまで」

和枝もすぐに言った。

「先生来はった」

その一言で、教室は一気に静かになった。

先生が入ってきた。

年配の女の先生だった。
背筋が伸びていて、声に無駄がなかった。
黒板の前に立つだけで、教室の空気が整った。

「皆さん、入学おめでとうございます」

先生はそう言ってから、教室全体を見回した。

「この学校は、決まりを大切にします。服装、時間、言葉づかい。どれも、社会に出るために必要なことです」

ミサは、少し背中が固くなった。

時間。
服装。
言葉づかい。

この三つは、これから何度も耳にすることになる。
そのときのミサは、まだ知らなかった。
遅刻に厳しい先生に、久美子が何度も慌てること。
服装検査のたびに、和枝が全員の襟元を見て回ること。
百合子がいつも穏やかに笑いながら、誰よりもきれいに身なりを整えていること。
そしてミサ自身が、思ったことを言いすぎて、何度も注意されること。

入学式は、講堂で行われた。

新入生たちは並んで座った。
前の方では先生たちが静かに動き、壇上には校長先生が立った。
話は長かった。
女子としての品位。
規則を守ること。
家庭を支える心。
社会に出ても恥ずかしくない人になること。

ミサは、最初は真面目に聞いていた。
けれど途中で、少しだけ気持ちがよそへ行った。

女子として。
家庭を支える。
恥ずかしくない人。

そういう言葉を聞くと、父の顔が浮かんだ。

父は、よく言っていた。

女は、勉強なんかせんでいい。
さっさと結婚すればいい。

一方で、弟たちには違った。

勉強しろ。
大学まで行け。

弟たちはよくできた。
父の言葉に応えるように、一流の学校へ進んでいった。
ミサは弟たちが嫌いではなかった。
むしろ弟は優しかった。
父に対して、姉のことで意見を言ってくれることもあった。

それでも、胸のどこかに小さな石のようなものがあった。

女やから。
娘やから。
それだけで、道が先に決められてしまうような感じ。

ミサは、その感じが好きではなかった。

壇上の声が続いていた。
ミサは膝の上で手をぎゅっと握った。

戦争は終わった。
町はまだ傷だらけだった。
食べ物も十分ではなかった。
それでも、こうして学校に来ている。

なら、ちゃんと学びたい。
ちゃんと友だちを作りたい。
ちゃんと笑いたい。
誰かに決められた通りではなく、自分で歩きたい。

そんなふうに、はっきり言葉にしたわけではない。
けれど、胸の奥にある何かが、少しだけ熱くなっていた。

入学式が終わり、教室へ戻る途中だった。

久美子が、廊下の途中で立ち止まっていた。

「どうしたん」

ミサが聞くと、久美子は困った顔をした。

「教室、どっちやったかな」

ミサは目を丸くした。

「今、来た道やん」

「来た道やけど、戻る道になると、ちょっと違って見えるやん」

「同じ廊下や」

「でも、反対向いたら違う」

ミサは一瞬黙った。
そして、ため息をついた。

「くーちゃん、こっち」

ミサが歩き出すと、久美子はその後ろをついてきた。

「ありがとう」

小さな声だった。

ミサは振り向かずに言った。

「別に」

「怒ってる?」

「怒ってへん」

「怒ってる声やけど」

「怒ってへんて」

百合子は笑った。
和枝は「廊下では静かに」と小声で注意した。

その日、ミサは思った。

この学校は、きっと厳しい。
先生も厳しい。
規則も多い。
怒られることもあるだろう。

けれど、退屈はしない。

なぜか、そう思った。

春の光が、廊下の床に長く伸びていた。
その光の中を、四人は少しずつ歩いていく。

先頭で道を確かめる和枝。
その横で、やわらかく笑う百合子。
少し遅れて、頬をふくらませたまま歩く久美子。
そして、その久美子を見ながら、また何か言いたくなっているミサ。

まだ、誰も知らなかった。

この四人で、何度も喧嘩をすること。
何度も笑うこと。
誰かを置いていきそうになって、結局は戻ること。
京都へ遊びに行くこと。
卒業式の日のこと。

ただ、廊下の向こうから聞こえてくる市電の音が、
これから始まる三年間を、静かに連れてきているようだった。

がたん、がたん。

それが、ミサの女子校時代の始まりだった。


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第2章 淡路島の空

淡路島の空は、広かった。

広いから安心だったわけではない。
むしろ、広すぎる空は、幼いミサには逃げ場のないものに見えた。

空のどこからでも、飛行機は来る。
海の向こうからでも、雲の切れ間からでも、音もなく現れるような気がした。

小学校一年生のミサは、その空を毎日のように見上げていた。

学校へ行くときも、防空頭巾をかぶった。
まだ体に大きすぎるような防空頭巾だった。
首のあたりがごわごわして、歩くたびに頬に布が当たった。
夏は暑く、冬は重かった。

けれど、大人は言った。

「かぶって行きなさい」

そう言われれば、子どもはかぶるしかなかった。

防空頭巾をかぶって家を出ると、自分が普通の子どもではなく、戦争の中に置かれた子どもなのだと、毎朝知らされるようだった。

ミサが淡路島へ来る前、最初は豊中のお寺へ集団疎開していた。

お寺の暮らしは、家の暮らしとは違った。
朝起きる時間も、食べるものも、寝る場所も、自分では決められない。
子どもたちは並ばされ、呼ばれ、動かされた。

それでも、そこには同じような子どもたちがいた。
家を離れ、不安を抱え、それでも子ども同士で何とか一日を過ごしていた。

そしてすぐ、ミサは再び此花へ戻った。

戻ってきた町は、まだ自分の町だった。
けれど、前と同じではなかった。

ある日、ミサは爆弾が落ちる瞬間を見た。

音より先に、光が来たように思えた。
赤い光が、ぱっと広がった。
それは夕焼けの赤ではなかった。
祭りの提灯の赤でもなかった。
空と地面のあいだに、突然、燃えるような色が開いた。

次の瞬間、町が燃えはじめた。

火は、家を選ばなかった。
道を選ばなかった。
そこにあるものを、ただ燃やしていった。

その赤い光を見たあと、ミサは一人だけ淡路島へ行くことになった。

一人だけ。

その言葉は、子どもの胸に重かった。

ミサは長女だった。
だからだったのかもしれない。
危ない大阪から、まず子どもを逃がす。
そう大人たちは考えたのかもしれない。

けれど、子どものミサには、そんな事情はわからなかった。

家族と一緒ではない。
母と一緒でもない。
弟弟と一緒でもない。
知っている友だちがいるわけでもない。

ただ、自分だけが淡路島へ行く。

淡路島は安全な場所だと言われたのかもしれない。
大阪よりはましだと言われたのかもしれない。

けれど、子どもにとって安全な場所とは、家族のいる場所だった。
知らない土地に一人でいることは、どれほど空が広くても、どれほど海が近くても、安全とは呼べなかった。

淡路島の道は、此花の道とは違った。

此花には工場の音があった。
働く人たちの足音があった。
声の大きな人たちがいた。
元気のいい人ばかりの町だった。

淡路島には、違う静けさがあった。

風の音。
畑の匂い。
海から来る湿った空気。
家の中に入っても、外の気配がどこか残っているようだった。

それなのに、ミサの心は休まらなかった。

学校へ行くと、ミサはよそ者だった。

大阪から来た子。
空襲から逃げてきた子。
一人で来た子。

そういう目で見られることがあった。

誰かがはっきりそう言ったわけではない日もある。
けれど、子どもはわかる。
自分がその場所に、まだ入れてもらっていないことくらい、すぐにわかる。

遊びの輪に入ろうとしても、すっと隙間が閉じる。
話しかけても、返事が遅れる。
笑い声の中に、自分だけが入っていない気がする。

のけ者にされることもあった。
いじめられることもあった。

何かを言い返したかった。
けれど、言い返すと、もっと一人になるような気がした。
言い返さなくても、一人だった。
どちらにしても、ミサは一人だった。

空を見上げると、B29が飛んでいた。

名前は知っていた。
大人たちの声の調子で、それが恐ろしいものだということも知っていた。
実際に見える機影は、小さな黒い点のような時もあった。
けれど、その小さな点が、町を焼くのだと知っていた。

飛行機は、毎日のように飛んだ。

子どもが空を見るのは、本来なら、雲の形を探すためだったはずだ。
鳥を見つけるためだったはずだ。
明日は晴れるかな、と考えるためだったはずだ。

けれど、そのころの空には、恐ろしいものが飛んでいた。

ミサは、淡路島から神戸の空襲を何度か見た。

海の向こうが赤くなる。
遠い町のはずなのに、遠いものには見えなかった。
火の色は、距離を越えてくる。
煙も、光も、人の声までも、こちらへ届いてくるような気がした。

神戸が燃えている。

そう聞くと、次に思うのは大阪のことだった。

此花はどうなっているのか。
父はどうしているのか。

何か月かして、母と弟弟たちが淡路島へやってきた。

その日を、ミサははっきり覚えているわけではない。
けれど、胸の奥にあった硬いものが、少しだけゆるんだような気がしたことは覚えている。

一人ではなくなった。

それだけで、家の中の空気が変わった。

母の気配がある。
弟弟の声がある。
誰かが物を動かす音がある。
それだけで、同じ淡路島の家が、少しだけ違う場所になった。

けれど、父は来なかった。

父だけは、大阪に残った。

家族を守るためだったのか。
仕事のためだったのか。
町を離れられなかったのか。

幼いミサには、その理由を全部理解することはできなかった。
ただ、父だけが大阪にいるということだけが、胸の奥で重く残った。

父は大手の造船所に勤めていた。
此花の町には、鉄と油と煙の匂いがあった。
大人たちは働き、町は音を立てていた。

父は明治四十三年生まれだった。
お茶も、お花も、尺八も教える人だった。
会社でも教えるほどの人だった。

ただ働くだけの人ではなかった。
音を知り、形を整えることを知っている人だった。

けれど、戦争の中では、そういう父も大阪に残るしかなかった。

あるとき、父が怪我をしたと聞いた。
焼夷弾を受けて怪我をしたのだと聞いた。
京橋の駅は大変だったとも聞いた。

大人たちの話は、子どもには断片でしか入ってこなかった。

父が怪我をした。
大阪が焼けている。
神戸も燃えている。
逃げ場がない。

それらの言葉は、ひとつひとつ別々に聞こえても、ミサの中では全部つながっていった。

戦争とは、空から爆弾が落ちてくることだけではなかった。
家族がばらばらになることだった。
知らない土地で一人になることだった。
言いたいことを言えなくなることだった。
嬉しいことさえ、嬉しいと言えなくなることだった。

淡路島にいても、戦争から離れたわけではなかった。

夜になると、ミサは布団の中でじっとしていた。

外の音を聞く。
風の音か。
波の音か。
飛行機の音か。
大人の足音か。
誰かが小さく話している声か。

区別がつかないまま、眠れない夜があった。

そのころからかもしれない。

ミサは、人の気配に敏感になった。

誰が一人でいるのか。
誰が困っているのか。
誰が言いたいことを飲み込んでいるのか。

そういうことに、すぐ気づくようになった。

気づくと、放っておけなかった。

後になって、女子校で久美子に出会ったときも、そうだった。

久美子は、別に泣いていたわけではない。
ひどく困っていたわけでもない。
ただ、少し遅かった。
物を探すのも、鞄を閉めるのも、廊下を歩くのも、みんなより少し遅かった。

けれど、ミサにはそれが見過ごせなかった。

一人であたふたしている姿を見ると、胸の奥がざわざわした。
誰にも助けてもらえずに立っていた、小さなころの自分を思い出すからかもしれなかった。

ただ、ミサの助け方は、やさしくはなかった。

「くーちゃん、そこ違う!」

気づけば、声が先に出る。

「もう、見てられへん!」

気づけば、手が先に出る。

久美子は、それが嫌だった。

久美子は、助けてほしくないわけではなかった。
ただ、助けられるたびに、自分が何もできない子のように扱われるのが嫌だった。

だから、顔を真っ赤にして拗ねる。

「ミサちゃんが先に言うから、余計にあわてるんやん」

その声はおっとりしている。
けれど、言っていることはなかなか強かった。

ミサは言い返す。

「先に言わな、また転ぶやん」

「まだ転んでへん」

「転ぶ前に言うてるんやん」

「転んでからでもええやん」

「よくないわ」

「私のことやもん」

「そうやけど!」

そこで二人は、いつも行き止まりになる。

ミサは久美子をほっとけない。
久美子はミサに構われすぎるのが嫌。
どちらも間違っていない。
だから、喧嘩はなかなか終わらない。

百合子は、そんな二人を見て、困ったように笑った。

「まあまあ、二人とも」

百合子の声は、いつもやわらかかった。
人を押さえつけるようなところがない。
けれど、そのやわらかさで、不思議と場の空気がほどけた。

百合子は裕福な家の子だった。

けれど、そのことを自分から言うことはなかった。
持ち物が上等でも、仕草がきれいでも、百合子はそれを隠すようにしていた。

それには理由があった。

百合子もまた、疎開先で嫌な思いをしていた。
お金持ちの子だと言われ、距離を置かれた。
妬まれ、からかわれ、よそ者のように扱われた。

だから百合子は、外では絶対にお金持ちだと知られたくなかった。

ミサは、それを最初から知っていたわけではない。
ただ、百合子が何かを隠していることだけは、うっすら感じていた。

そして和枝は、四人の中でいちばんきちんとしていた。

時間に遅れない。
持ち物を忘れない。
先生の話を聞き逃さない。
黒板の字をきれいに写す。
ミサと久美子が喧嘩を始めると、時計を見てから止めに入る。

「二人とも、あと三分で先生来はる」

和枝がそう言うと、なぜか二人とも少し黙った。

和枝の言葉には、感情より先に事実があった。
あと三分。
先生が来る。
だから静かにする。

それ以上でも、それ以下でもなかった。

ミサは、和枝のそういうところを少し苦手に思いながら、同時に頼りにもしていた。

淡路島の空を見上げていた小さなミサには、そんな友だちができる未来など想像もできなかった。

空を見上げればB29が飛んでいる。
海の向こうでは神戸が燃えている。
大阪には父が残っている。

そのころのミサには、明日がどうなるのかもわからなかった。

けれど、ずっと後になって、女子校の教室で、ミサは久美子に怒っていた。
百合子が笑っていた。
和枝が注意していた。

それは、戦争の中では考えられなかった日常だった。

喧嘩ができる。
笑える。
遅刻を心配できる。
髪の跳ね方で注意される。
教科書を忘れて慌てる。

そんな小さなことが、どれほど大事なことだったのか、ミサはそのときまだ知らなかった。

ただ、久美子がまた廊下でつまずきそうになったとき、ミサはいつものように声を出した。

「くーちゃん、危ない!」

久美子は振り返り、ぷうっと頬をふくらませた。

「まだ、こけてへん」

その顔を見たとき、ミサの胸の中で、淡路島の空が少し遠くなった。

遠くなっただけで、消えたわけではない。

けれど、その遠さが、ミサには少しだけありがたかった。


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第3章 厳しい学校と、うるさい四人

女子校は、思っていた以上に厳しかった。

入学式の日に先生が言った通りだった。

服装。
時間。
言葉づかい。

その三つは、毎日のようにミサたちの前に現れた。

朝、校門の前には先生が立っていた。
背筋を伸ばし、手を前でそろえ、入ってくる生徒を一人ずつ見ている。

ただ見ているだけなのに、その視線は定規のようだった。

髪は乱れていないか。
制服の襟は曲がっていないか。
靴下は下がっていないか。
鞄の持ち方はだらしなくないか。

先生は、ほとんど見逃さなかった。

「そこ、襟」

「はい」

「髪、前に出すぎています」

「はい」

「靴下を直しなさい」

「はい」

朝の校門では、あちこちで小さな「はい」が聞こえた。

ミサは、そのたびに背筋を伸ばした。
怒られるのが怖いというより、言われる前に直したい気持ちがあった。

ただ、気をつけているつもりでも、ミサの場合は別のところで引っかかった。

「声が大きい」

ある朝、校門をくぐったところで先生に言われた。

ミサは思わず立ち止まった。

「声ですか」

「そうです。朝から廊下まで響いています」

「まだ廊下に入ってません」

言ってから、しまったと思った。

先生の眉が、少し動いた。

「そういう返事をしない」

「はい」

ミサは頭を下げた。

後ろで百合子が小さく笑った。
和枝は「ほら」とでも言いたげな顔をしていた。
久美子は、自分の靴下を直すのに必死で、ミサが注意されたことにまだ気づいていなかった。

「くーちゃん、靴下」

ミサが小声で言うと、久美子は顔を上げた。

「今、直してる」

「片方だけやん」

「もう片方は、あとで」

「あとでは遅い」

「ミサちゃん、声大きいって言われたばっかりやん」

久美子に言われ、ミサは口を閉じた。

百合子が、困ったように笑った。

「今日は、くーちゃんの勝ちやね」

「勝ってへん」

ミサが言うと、和枝が時計を見た。

「勝ち負けより、あと二分で朝礼」

その一言で、四人は急いで廊下へ向かった。

廊下には、磨かれた床の匂いと
女学生たちの足音が、ぱたぱたと重なった。

学校は厳しかったが、朝の廊下には不思議な活気があった。
誰かがリボンを直し、誰かが教科書を抱え直し、誰かが先生の姿を見て急に背筋を伸ばす。

その中を、四人は並んだり、ほどけたりしながら歩いた。

和枝はいつも先頭に近いところを歩いた。
時間に遅れることが何より嫌だった。

百合子は少し後ろから、全員の様子を見ている。

久美子は遅れがちになる。

ミサは、久美子を見ながら歩くので、前を見ていないことがある。

そのため、ミサ自身もよく危なかった。

「ミサちゃん、前」

和枝が言った時には、もう遅かった。

ミサは廊下の角で、教室から出てきた上級生とぶつかりかけた。

「すみません」

ミサは頭を下げた。

上級生は、少しだけミサを見てから、静かに通り過ぎた。
その姿がいかにもきちんとしていて、ミサは少し悔しくなった。

「くーちゃんばっかり見てるからや」

和枝が言った。

「見てへん」

「見てた」

「ちょっとだけ」

「ちょっとでも前を見なさい」

百合子が笑った。

「かずちゃん、先生みたい」

和枝は少しだけ困った顔をした。

「先生みたいなんは嫌やけど、二人を見てたら言いたくなる」

「二人って、私も入ってる?」

ミサが聞くと、和枝はまっすぐ答えた。

「もちろん」

久美子がくすっと笑った。

ミサはそれを見逃さなかった。

「くーちゃん、笑ってる場合ちゃうで。髪、跳ねてる」

久美子は、すぐに両手で髪を押さえた。

「どこ」

「右」

「こっち?」

「それ左」

「え、こっち?」

「それ後ろ」

「ミサちゃんが言うから、余計わからん」

「なんでやねん」

百合子が手を伸ばして、久美子の髪をそっと直した。

「はい、これで大丈夫」

久美子は安心したように息をついた。

「ありがとう、ゆりちゃん」

ミサは小さく言った。

「私も直せるのに」

久美子はすぐに言い返した。

「ミサちゃんは、直す前に怒るもん」

「怒らへん」

「怒る」

「怒らへんて」

「ほら、もう怒ってる」

和枝が二人の間に入った。

「廊下では静かに」

その言葉を聞いた瞬間、四人の近くにいた生徒が何人か笑った。

ミサは、少し顔が熱くなった。
久美子も頬をふくらませた。
百合子は笑いながら、でも声を出さないように口元を押さえた。
和枝だけが、真面目な顔で前を向いていた。

教室に入ると、次は持ち物の確認だった。

先生は、毎朝のように言った。

「机の上を整えなさい」

その一言で、教室中の生徒が一斉に動く。

教科書。
ノート。
筆箱。
下敷き。
ハンカチ。

和枝の机は、最初から整っていた。
百合子の机も、きれいだった。
ミサの机は、勢いはあるが、少し斜めだった。

久美子の机は、毎朝、小さな事件だった。

その日も、久美子は鞄の中をのぞき込んでいた。

「ない」

小さな声だった。

ミサは聞き逃さなかった。

「何が」

久美子は、ゆっくり顔を上げた。

「国語の教科書」

「昨日、入れた?」

「入れたと思う」

「思う、は危ない」

「入れた気がする」

「もっと危ない」

久美子は、鞄の中をもう一度探した。
弁当包みが出てきた。
手ぬぐいが出てきた。
なぜか昨日の紙くずが出てきた。

けれど、国語の教科書は出てこなかった。

和枝が静かに言った。

「机の中は?」

久美子は、はっとした顔をした。

机の中に手を入れる。
そして、国語の教科書を出した。

「あった」

ミサは額に手を当てた。

「目の前どころか、机の中やん」

「机の中は見えてへん」

「開けたら見える」

「開けるの忘れてた」

「それが問題や」

久美子は、また頬をふくらませた。

「ミサちゃん、先生みたい」

「先生ちゃうわ」

「でも、言い方が先生」

その言葉に、ミサは少し傷ついた。

先生みたい。

それは、ミサにとってあまり嬉しくない言葉だった。
注意したいのではない。
責めたいのでもない。
ただ、久美子が困る前に何とかしたいだけだった。

けれど、その思いはいつも強い声になって出てしまう。

その日の三時間目は、古典だった。

古典の先生は、野崎先生といった。

女の先生だった。
年齢は母より少し若いくらいに見えたが、教壇に立つと、ずっと年上に感じられた。

背は高くない。
けれど、教室に入ってくるだけで、空気が変わった。

髪はきちんとまとめられ、着物の襟元は少しの乱れもなかった。
歩く音は静かだったが、その静かさがかえって怖かった。

野崎先生は、怒鳴る先生ではなかった。

怒鳴らないから、余計に怖かった。

「開きなさい」

その一言で、教室中が一斉に古典の教科書を開く。

紙の音が、ぱらぱらと重なった。

ミサも教科書を開いた。
和枝はすでに開いていた。
百合子も静かにページを押さえていた。

久美子だけが、鞄の中を見ていた。

ミサは、嫌な予感がした。

「くーちゃん」

小声で言う。

久美子は、顔を上げない。

「くーちゃん」

もう一度呼ぶと、久美子が泣きそうな顔でこちらを見た。

「ない」

ミサは目を閉じた。

「何が」

聞かなくてもわかっていた。

「古典の教科書」

ミサは、机の下で拳を握った。

「朝の国語の教科書と違うん?」

「違う」

「なんで古典だけないの」

「昨日、入れたと思った」

「思う、は危ないって朝言うたやん」

「古典にも当てはまると思わへんかった」

「全部に当てはまるわ」

そのやり取りを聞いていた百合子が、そっと自分の教科書を少し久美子の方へ寄せた。

和枝は、小さくささやいた。

「今日は二十七ページ」

久美子は慌てて百合子の教科書を見ようとした。

しかし、その動きが遅かった。

野崎先生の声がした。

「久美子さん」

教室が静まり返った。

久美子は、びくっとして立ち上がった。

「はい」

「教科書は」

久美子の顔が、みるみる赤くなった。

「えっと……」

「えっと、ではありません。教科書は」

ミサは思わず言った。

「先生、私の教科書を――」

「ミサさん」

野崎先生の声が、すっとミサの方へ向いた。

大きな声ではない。
けれど、まっすぐだった。

「私は久美子さんに聞いています」

ミサは口を閉じた。

久美子は下を向いた。

「忘れました」

教室の空気が少し重くなった。

野崎先生は、久美子をじっと見た。

「忘れ物は、誰にでもあります」

意外な言葉だった。

久美子は少し顔を上げた。
ミサも、先生を見た。

野崎先生は続けた。

「けれど、忘れたことをごまかそうとするのはいけません」

久美子の肩が小さく震えた。

「ごまかそうとしたわけでは……」

ミサがまた言いかけた。

その時だった。

野崎先生の視線が、ミサから百合子へ、そして和枝へと動いた。

「百合子さん」

「はい」

「あなたは、教科書を少し久美子さんへ寄せましたね」

百合子は静かにうつむいた。

「はい」

「和枝さん」

「はい」

「あなたはページを教えましたね」

和枝の背筋が、さらに伸びた。

「はい」

「ミサさん」

「はい」

「あなたは、久美子さんのかわりに答えようとしましたね」

ミサは唇を結んだ。

「はい」

野崎先生は、少しだけ間を置いた。

教室中が四人を見ていた。

久美子は真っ赤になっていた。
百合子は困ったように目を伏せていた。
和枝はまっすぐ前を向いている。
ミサは、悔しいような、恥ずかしいような気持ちで立っていた。

野崎先生は言った。

「四人とも、廊下へ出なさい」

教室がざわっとした。

久美子が、泣きそうな声を出した。

「先生、私が忘れたんです。三人は――」

「久美子さん」

野崎先生は静かに言った。

「そういうところです」

久美子は言葉を止めた。

四人は廊下へ出た。

廊下は、授業中なので静かだった。
窓から入る光が床に落ちている。
遠くの教室から、別の先生の声がかすかに聞こえた。

四人は、並んで立った。

ミサは、腹が立っていた。

久美子が忘れたのは悪い。
それは悪い。

でも、百合子も和枝も助けようとしただけだ。
自分だって、久美子が困っているから口を出しただけだ。

なぜ四人全員が廊下に出されなければならないのか。

そう思った。

久美子は、下を向いていた。

「ごめん」

小さな声だった。

ミサはすぐに言った。

「くーちゃんが悪い」

久美子の肩がびくっとした。

百合子が慌てて言った。

「ミサちゃん」

和枝も小声で言った。

「今それを言うと、余計に――」

ミサは止まらなかった。

「だって、忘れたんはくーちゃんやん。朝も教科書探してたやん。古典もちゃんと見とけばよかったやん」

久美子の目に涙が浮かんだ。

「わかってる」

「わかってるなら、なんで忘れるん」

「忘れたくて忘れたんちゃう」

「でも忘れた」

「だから謝ってるやん」

久美子の顔が赤くなっていった。

いつもの拗ねた赤ではなかった。
恥ずかしさと悔しさが混じった赤だった。

「ミサちゃんは、すぐそうやって言う」

「言わな、また忘れるやん」

「言われても忘れる時ある」

「それは困る」

「私も困ってる!」

久美子の声が少し大きくなった。

廊下に声が響いた。

百合子が二人の間に入った。

「二人とも、授業中やよ」

和枝も言った。

「野崎先生に聞こえる」

「聞こえております」

四人は、同時に固まった。

教室の戸が開き、野崎先生が出てきていた。

先生は四人を見た。
怒鳴らなかった。
けれど、その目は厳しかった。

「古典の時間に、廊下で現代語の喧嘩ですか」

百合子が小さく口元を押さえた。

笑いそうになったのではない。
緊張で、何かをこらえたのだった。

ミサはまっすぐ先生を見た。

「すみません」

久美子も言った。

「すみません」

和枝と百合子も頭を下げた。

野崎先生は、四人の前に立った。

「あなたたちは、仲が良いのですね」

意外な言葉だった。

四人は顔を上げた。

先生は続けた。

「仲が良いことは悪いことではありません。助け合うことも、悪いことではありません」

ミサは少しだけほっとした。

けれど、野崎先生の声はすぐに厳しくなった。

「けれど、助けることと、甘やかすことは違います」

廊下に、静かな言葉が落ちた。

「久美子さん」

「はい」

「あなたは、忘れたなら忘れたと、最初に言いなさい。人に隠してもらおうとしてはいけません」

「はい」

「百合子さん」

「はい」

「あなたのやさしさは良いものです。けれど、やさしさで相手の失敗を見えなくしてしまうことがあります」

百合子は、少し目を伏せた。

「はい」

「和枝さん」

「はい」

「あなたは正しいことを知っています。けれど、正しい答えを小声で渡すことが、いつも相手のためになるとは限りません」

和枝の顔が少しこわばった。

「はい」

「ミサさん」

「はい」

野崎先生の目が、ミサに向いた。

「あなたは、すぐに人の前へ出ますね」

ミサは黙った。

「困っている人を見ると、放っておけないのでしょう」

ミサは、少し驚いた。

野崎先生は、そこまで見ているのか。

「けれど、あなたが前に出すぎると、その人が自分で立つ場所まで取ってしまいます」

その言葉は、ミサの胸に刺さった。

自分で立つ場所。

久美子がいつも怒る理由が、少しだけ言葉になった気がした。

久美子は、助けてほしくないわけではなかった。
でも、自分でできると言いたかったのだ。

野崎先生は、少し息をついた。

「四人とも、授業が終わるまでここで立っていなさい」

「はい」

四人は小さく答えた。

野崎先生は教室へ戻った。

戸が閉まる。

廊下に、四人だけが残された。

しばらく、誰もしゃべらなかった。

教室の中から、野崎先生の声が聞こえる。

「では、続けます」

その声は、何事もなかったように落ち着いていた。

ミサは、横目で久美子を見た。

久美子は下を向いていた。
でも、泣いてはいなかった。

百合子は少し困った顔をしている。
和枝は、真面目な顔で前を向いている。

ミサは小さく言った。

「くーちゃん」

久美子は返事をしなかった。

「怒ってる?」

久美子は、少し間を置いて答えた。

「怒ってる」

「私に?」

「うん」

ミサは黙った。

久美子は続けた。

「でも、私も悪い」

その声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。

「忘れたんは、私やから」

ミサは、少し胸が痛くなった。

「私も悪い」

久美子が顔を上げた。

「ミサちゃんが?」

「うん」

「珍しい」

「今、それ言う?」

久美子は、ほんの少しだけ口元を動かした。

ミサは続けた。

「くーちゃんが自分で謝る前に、私が言おうとした」

久美子は黙って聞いていた。

「それは、あかんかったかもしれへん」

百合子が、静かに言った。

「私も、教科書寄せた」

和枝も言った。

「私も、ページを教えた」

久美子は三人を見た。

「みんな、私のせいで怒られた」

ミサはすぐに言った。

「それは違う」

久美子が眉を寄せた。

「でも」

「くーちゃんが忘れたのは、くーちゃんが悪い」

「やっぱり言う」

「でも、私らがそれぞれ勝手に助けようとしたのは、私らのことや」

和枝がうなずいた。

「それは、その通り」

百合子も言った。

「私も、ちゃんと考えなあかんかった」

久美子は、少し泣きそうな顔になった。

「みんな、怒ってへんの?」

ミサは答えた。

「怒ってる」

久美子は、また頬をふくらませた。

「どっちなん」

「忘れたことには怒ってる。でも、くーちゃんだけが悪いとは思ってへん」

久美子は、少し考えた。

「難しい」

「くーちゃんには、まだ早い」

「またそれ!」

久美子の声が大きくなりかけた。

四人は、同時に教室の戸を見た。

野崎先生が出てくる気配はない。

百合子が小さく笑った。

和枝も、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

廊下に立たされているのに、四人は少しだけ仲直りしていた。

授業が終わる鐘が鳴った。

教室の戸が開いた。

野崎先生が出てきた。

「四人とも、中へ入りなさい」

「はい」

四人は教室へ戻った。

生徒たちの視線が集まった。
ミサは少し恥ずかしかった。
久美子はもっと恥ずかしそうだった。
百合子は静かに席へ戻り、和枝は背筋を伸ばして座った。

野崎先生は教壇に立った。

「今後、古典の授業で忘れ物をした者は、授業の前に申し出ること」

教室全体に向けて言った。

「また、人の失敗をごまかすような助け方はしないこと」

ミサは下を向いた。

「助けるなら、その人が次に忘れないように助けなさい」

その言葉に、和枝が少し顔を上げた。

野崎先生は、四人を見た。

「あなたたち四人は、特にです」

四人は同時に答えた。

「はい」

その声がそろいすぎて、教室のどこかで小さな笑いが起きた。

野崎先生は、少しだけ目を細めた。

笑ったのかもしれない。

でも、すぐにいつもの厳しい顔に戻った。

その日から、野崎先生は四人に特に厳しくなった。

古典の授業で少しでも姿勢が崩れると、

「ミサさん」

と呼ばれた。

久美子が教科書を探すような音を立てると、

「久美子さん、授業前に準備」

と言われた。

百合子が隣を気にしすぎると、

「百合子さん、自分の本文を読みなさい」

と言われた。

和枝が小声で誰かに教えようとすると、

「和枝さん、答えは本人に考えさせなさい」

と言われた。

四人は、野崎先生の授業の前だけは、いつもより緊張した。

特に久美子は、古典の日になると朝から落ち着かなかった。

「教科書、入れた」

ミサが聞く前に、久美子は言うようになった。

「見せて」

ミサが言う。

「入ってる」

「見せて」

「信用して」

「確認は信用とは別」

和枝が横から言った。

「確認は大事」

久美子は鞄を開けた。

古典の教科書は入っていた。

「ほら」

久美子は少し得意そうだった。

ミサは言った。

「今日はえらい」

「今日は?」

「今日も、にしとく?」

「今日も!」

百合子が笑った。

古典の授業では、野崎先生がよく文章を読ませた。

「では、ミサさん」

「はい」

ミサは立って読む。

古い言葉は、今の言葉とは違う。
何を言っているのか、すぐにはわからないところもあった。

けれど、声に出して読むと、不思議と調子があった。

野崎先生は、そこには厳しかった。

「急ぎすぎです」

「はい」

「言葉を粗末にしない」

「はい」

ミサは少しむっとした。

けれど、野崎先生の言うこともわからなくはなかった。

言葉を粗末にしない。

それは、ミサには少し痛い言葉だった。

自分はいつも、言葉が先に出る。
久美子に強く言いすぎる。
怒っていないのに、怒っているように聞こえる。

言葉を粗末にしているつもりはなかった。
でも、大切に扱えていない時はあったのかもしれない。

次に久美子が読まされた。

「久美子さん」

「はい」

久美子は立った。

教科書を持つ手が少し震えていた。

ミサは、思わずページを指さしそうになった。
けれど、野崎先生の言葉を思い出して、手を止めた。

本人に考えさせなさい。

久美子は、ゆっくり読み始めた。

少しつっかえた。
一度、場所を見失いかけた。
でも、途中で百合子が手を出すことはなかった。
和枝も小声で教えなかった。
ミサも、口を閉じていた。

久美子は最後まで読んだ。

読み終わった時、教室の中は静かだった。

野崎先生は言った。

「よろしい」

それだけだった。

けれど、久美子の顔がぱっと明るくなった。

授業が終わると、久美子はミサのところへ来た。

「読めた」

「読めたな」

「途中で、場所わからんようになりかけた」

「なりかけたな」

「でも、戻れた」

「戻れた」

「自分で」

久美子は、そこを強く言った。

ミサは笑った。

「自分で戻れました」

「ちゃんと言った」

「言った」

久美子は満足そうにうなずいた。

百合子も言った。

「すごかったよ、くーちゃん」

和枝は真面目に言った。

「次は、もう少し声をはっきり」

「かずちゃん、すぐ次」

「でも、よく読めてた」

和枝がそう付け加えると、久美子は少し照れた。

「ありがとう」

その日の放課後、またひとつ事件が起きた。

原因は、掃除当番だった。

女子校では、掃除にも細かな決まりがあった。
ほうきの持ち方。
雑巾の絞り方。
机の寄せ方。
黒板の拭き方。
窓を開ける順番。

和枝は、もちろんそれを覚えていた。

「まず窓を開ける。それから机を後ろへ寄せる。黒板は最後」

「なんで黒板が最後なん」

ミサが聞く。

「先に拭いても、ほこりがつくから」

「なるほど」

「なるほど、やなくて覚えて」

久美子は、雑巾を持ったまま立っていた。

「くーちゃん、何してるん」

ミサが聞くと、久美子は真面目に答えた。

「雑巾、絞る前に濡らすんやったかな、濡らす前に絞るんやったかなと思って」

ミサは、しばらく久美子を見た。

「濡らす前に絞って、何が出るん」

久美子は、少し考えた。

「空気?」

ミサは吹き出した。
百合子も笑った。
和枝まで、少しだけ笑った。

久美子は頬をふくらませた。

「そんな笑わんでもええやん」

「いや、空気って」

「出るかもしれへんやん」

「出えへんわ」

「やってみなわからん」

「わかるわ」

また二人が言い合い始めたところで、和枝が手を叩いた。

「掃除」

その一言で、全員が動き出した。

ミサは机を運ぶ。
百合子は窓を開ける。
和枝は黒板消しを整える。
久美子は雑巾を持って水道へ向かう。

しばらくして、水道の方から声がした。

「あっ」

ミサは振り向いた。

久美子が、びしょびしょになった雑巾を両手で持って立っていた。
水がぽたぽた床に落ちている。

「くーちゃん!」

ミサが叫んだ。

「絞った!」

「どこが!」

「ちょっと絞った!」

「ちょっとでは足りへん!」

「力入れたら、水が飛んだ!」

「飛ばさんように絞るんや!」

「難しい!」

百合子が急いで布を持ってきた。
和枝は床に落ちた水を見て、すぐに指示を出した。

「まずそこ拭いて。廊下に広がる前に」

「はい!」

久美子は慌ててしゃがんだ。
けれど、今度は自分の足元に水があることに気づかず、少し滑りかけた。

ミサが手を伸ばした。

「危ない!」

久美子は転ばなかった。
ミサの手を借りる前に、何とか踏みとどまった。

そして、すぐに言った。

「今のは、自分で止まった」

ミサは息を切らしながら言った。

「止まったけど、危なかった」

「でも、止まった」

「わかった、止まった」

「ちゃんと言って」

「くーちゃんは、自分で止まりました」

久美子は少し満足そうにうなずいた。

その顔を見て、ミサは笑ってしまった。

掃除は、予定より長くかかった。

和枝は何度もため息をついた。
百合子は何度も笑った。
久美子は何度も謝った。
ミサは何度も怒った。

けれど、最後には教室はきれいになった。

夕方の光が、窓から斜めに入っていた。
机はきちんと並び、黒板は拭かれ、床の水も乾きかけていた。

先生が教室をのぞいた。

「終わりましたか」

「はい」

和枝が答えた。

先生は教室を見回し、少しだけうなずいた。

「きれいになりましたね」

その一言で、四人は顔を見合わせた。

百合子が笑った。
和枝も、ほんの少し笑っていた。

帰り道、四人は校門を出た。

空は夕方の色になっていた。
市電の音が遠くから聞こえる。
道には、仕事帰りの人や買い物帰りの人が歩いていた。

学校は厳しかった。
先生も厳しかった。
規則も多かった。

なかでも野崎先生は、四人に特に厳しかった。

けれど、ミサは少しだけわかっていた。

野崎先生は、ただ四人を叱りたいのではない。
四人がいつも一緒にいて、いつも何かを起こして、いつも誰かが誰かを助けようとしていることを、ちゃんと見ている。

その助け方が、時には相手のためにならないこともある。
そのことを、先生は教えようとしていたのかもしれない。

けれど、それを素直に認めるのは、まだ少し悔しかった。

校門の外で、久美子が言った。

「明日、古典ある?」

和枝はすぐに答えた。

「ある」

久美子の顔が曇った。

「教科書、今日のうちに鞄入れとく」

ミサは言った。

「えらい」

久美子は、少し嬉しそうにした。

「ミサちゃん、怒らへんの?」

「今日は怒らへん」

「今日は?」

「明日忘れたら怒る」

「忘れへん」

「ほんまに?」

「ほんま」

和枝がすぐに言った。

「明日の朝、私が確認する」

百合子が笑った。

「じゃあ、忘れても大丈夫やね」

「忘れへん!」

久美子が大きな声で言った。

その声が思ったより大きくて、校門の近くにいた野崎先生がちらりとこちらを見た。

四人は、同時に口を閉じた。

野崎先生は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。

その顔が、笑ったようにも見えた。

先生が向こうを向いた瞬間、四人はこらえきれずに笑った。

その笑い声は、市電の音に少し混じって、夕方の町へ流れていった。

厳しい学校。
厳しい校則。
厳しい先生。

それでも、四人でいれば、毎日はなぜか騒がしくなった。

ミサが怒る。
久美子が拗ねる。
百合子が笑ってなだめる。
和枝が時間を見て注意する。

誰かが忘れて、誰かが助ける。
誰かが転びかけて、誰かが手を出す。
誰かが泣きそうになって、誰かが笑わせる。

それは、特別な事件ではなかった。
毎日の中にある、小さな騒ぎだった。

けれど、ミサにとっては、その小さな騒ぎこそが、少しずつ大切なものになっていった。

戦争のころは、声を出すことさえ怖い時があった。
嬉しいことも、怖いことも、胸の中にしまっておくしかなかった。

けれど今は、怒れる。
言い返せる。
笑える。
注意される。
叱ってくれる先生がいる。
そして、また明日も会える。

それだけで、十分だった。


序章 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 最終章


第4章 玉音放送と、言えなかった嬉しさ

その日の朝から、家の中の音が少なかった。

母が立てる台所の音も、いつもより小さかった。
弟たちの声も、どこか遠慮がちだった。
誰かが怒ったわけでもない。
誰かが泣いているわけでもない。

けれど、淡路島の家の中には、朝から見えないものが張りつめていた。

ミサは、それを感じていた。

小学校二年生の子どもに、難しいことはわからない。
大人たちが何を心配しているのか、何を待っているのか、はっきりとはわからない。

それでも、わかることはあった。

今日は、いつもと違う。

母が何かを言いかけて、やめた。
弟の一人がふざけようとして、すぐに口を閉じた。
家の中の誰もが、何かを待っていた。

その中心に、ラジオがあった。

ラジオは、畳の部屋の隅に置かれていた。
普段から大事なものだったが、その日は、まるで家の中で一番偉いもののように見えた。

誰も、むやみに近づかなかった。
誰も、触ろうとしなかった。

ただ、その前に座った。

母が座った。
弟たちが座った。
ミサも、膝の上で手を重ねて座った。

外は夏だった。

窓の外には、強い光があった。
蝉の声が聞こえていたかもしれない。
風も少しは入っていたはずだった。

けれど、部屋の中の空気は動かなかった。

暑いのに、誰も「暑い」と言わなかった。
喉が渇いても、誰も立ち上がらなかった。
畳の上に座る大人たちの背中が、いつもより大きく、そして重く見えた。

誰かが、小さく言った。

「始まる」

その一言で、家の中から音が消えた。

ラジオから、ざらざらとした音がした。

遠い雷のような、紙をこするような、海の向こうから届く風のような音だった。
それから、声が流れた。

ミサが普段聞いている大人の声とは違っていた。

近くにいる人の声ではなかった。
こちらへ話しかけているようで、どこか遠い。
言葉は聞こえるのに、意味はすぐには入ってこない。

難しい言葉だった。

ミサには、ひとつひとつの意味がわからなかった。
けれど、大人たちの顔を見れば、それがただの放送ではないことだけはわかった。

母は、まっすぐラジオを見ていた。

泣いているのか、怒っているのか、ほっとしているのか。
ミサにはわからなかった。
ただ、母の横顔には、子どもが簡単に声をかけてはいけないものがあった。

弟たちも黙っていた。
いつもなら、じっとしていられない年頃だった。
けれど、その時だけは、誰も動かなかった。

ラジオの声は続いた。

ミサには、全部はわからない。
でも、部屋の中の空気が少しずつ変わっていくのがわかった。

誰かの肩が、ほんの少し落ちた。
誰かが、息を飲んだ。
母の手が、膝の上で少しだけ動いた。

その時、ミサの胸に、ひとつの意味だけが届いた。

戦争が終わる。

誰かがそう言ったのかもしれない。
母の息の仕方でわかったのかもしれない。
ラジオの言葉の中から、子どもの耳にもそれだけが拾えたのかもしれない。

はっきりとは覚えていない。

けれど、ミサの胸には、確かに届いた。

戦争が終わる。

その瞬間、ミサの体の奥で、何かがふっと軽くなった。

うれしい。

そう思った。

本当に、うれしいと思った。

もう、空を見上げて飛行機を探さなくてもいいのかもしれない。
学校へ行くたびに、防空頭巾をかぶらなくてもいいのかもしれない。
海の向こうが赤く燃えるのを見なくてもいいのかもしれない。
大阪に残っている父のことを、今までほど心配しなくてもいいのかもしれない。

そう思った。

けれど、その気持ちは、すぐに胸の中で止まった。

言ってはいけない。

ミサは、そう思った。

うれしい、と言ってはいけない。
よかった、と笑ってはいけない。
手を叩いてはいけない。
飛び上がってはいけない。

なぜなのかは、わからなかった。

ただ、目の前の大人たちが誰も笑っていなかった。
母も笑っていなかった。
弟たちも声を出さなかった。

だから、ミサも黙った。

うれしいのに、黙った。

胸の中では、戦争が終わるという言葉が、何度も何度も響いていた。
けれど、口は動かなかった。

子どもは、大人の顔を見る。

大人が笑わなければ、子どもも笑わない。
大人が黙れば、子どもも黙る。
大人が息を殺していれば、子どもも息を殺す。

戦争が終わった日でさえ、ミサは喜び方を知らなかった。

ラジオの声が終わった。

けれど、誰もすぐには動かなかった。

部屋の中には、声が消えたあとの沈黙だけが残った。
その沈黙の方が、放送の声より重かった。

外では、夏の光が相変わらず強かった。
風も吹いていた。
遠くで、人の足音か、荷車の音か、何かが聞こえた。

世界は動いているのに、家の中だけが止まっていた。

ミサは、母の顔を見た。

母は、しばらくして、ほんの少しだけ息を吐いた。

長い間、胸の奥に押し込めていたものが、少しだけ外へ出たような息だった。

その息を聞いた時、ミサは初めて思った。

大人も、怖かったのだ。

それまで、大人は何でも知っていて、何でも決めていて、子どもを動かす側の人間だと思っていた。
けれど、その日の母の横顔を見て、ミサは少しだけわかった。

大人も怖い。
大人も不安になる。
大人も、黙るしかない時がある。

父は、大阪にいた。

そのことは、その日も変わらなかった。

戦争が終わると聞いても、父がすぐに淡路島へ帰ってくるわけではない。
大阪の町が、焼ける前の姿に戻るわけでもない。
食べるものが急に増えるわけでもない。
失ったものが、元通りになるわけでもない。

終わった。

でも、全部が終わったわけではなかった。

それを、大人たちは知っていたのかもしれない。
だから、笑えなかったのかもしれない。

ミサには、そこまではわからなかった。

ただ、うれしいのに、うれしいと言えなかった。

そのことだけが、胸に残った。

戦争は、爆弾だけではなかった。

空を怖がること。
知らない土地で一人になること。
食べるものがないこと。
家族がばらばらになること。

そして、うれしいことを、うれしいと言えなくなること。

それも、戦争だった。

その記憶は、ミサの中に長く残った。

ずっと後になって、女子校の教室でミサがよく喋るようになったのは、そのせいだったのかもしれない。

思ったことを、胸の中にしまっておくのが嫌だった。
おかしいと思ったことを、黙って見過ごすのが嫌だった。
困っている子がいるのに、知らないふりをするのが嫌だった。

もちろん、言い方は強すぎた。
声も大きかった。
久美子には、何度も嫌がられた。

「ミサちゃんは、すぐ言う」

久美子はよくそう言った。

そのたびにミサは言い返した。

「言わな、わからんやん」

けれど、本当は少し違っていた。

言わな、わからん。

それだけではなかった。

言わな、自分がまた黙ってしまう気がしたのだ。

玉音放送の日、ミサは黙っていた。
うれしいと思ったのに、言えなかった。
戦争が終わることを喜びたかったのに、喜ぶ顔をしていいのかどうかもわからなかった。

だから、女子校に入ってからのミサは、黙らなかった。

久美子の鞄が開いていれば言った。
靴下がずれていれば言った。
廊下でつまずきそうになれば、先に声が出た。
先生の話でおかしいと思えば、顔に出た。
父に言われた「女は勉強なんかせんでいい」という言葉にも、胸の中では何度も言い返していた。

ただ、その全部がうまく伝わるわけではなかった。

「くーちゃん、また忘れてる!」

ある日の放課後、ミサは教室の戸口で声を上げた。

久美子は、机の上に置いたままの教科書を見て、目を丸くした。

「あ、ほんまや」

「ほんまや、やないわ。明日いるやつやろ」

「明日いるけど、明日持って帰っても間に合うかなと思って」

「今、持って帰った方が早いやん」

「でも、今、鞄がいっぱいやねん」

「何が入ってるの」

「いろいろ」

「いろいろって何」

久美子は鞄の中をのぞいた。
そして、少し考えた。

「お弁当の包みと、手ぬぐいと、昨日の紙と、今日の紙と、よくわからん紙」

ミサは額に手を当てた。

「よくわからん紙を捨てなさい」

「いる紙かもしれへん」

「よくわからんのに?」

「あとで、わかるかもしれへん」

「わからんまま、ずっと入ってるやつや」

久美子は頬をふくらませた。

「ミサちゃん、言い方」

「事実やん」

「事実でも、言い方」

そこへ百合子がやってきた。

「また始まってる」

和枝も、後ろから言った。

「帰る時間、過ぎてる」

ミサは久美子を見た。
久美子は教科書を抱えた。
でも、鞄に入れるのに時間がかかる。

ミサは、手を出しそうになった。

けれど、その手を一度止めた。

久美子が自分で入れようとしている。

待つ。
少しだけ待つ。

ミサは唇を結んだ。

久美子は、ゆっくり教科書を鞄に入れた。
鞄の留め金を閉めようとして、少しもたついた。
ミサは見ていた。
手を出さずに見ていた。

やっと閉まった。

久美子は、ぱっと顔を上げた。

「できた」

その顔が、どこか誇らしそうだったので、ミサは言った。

「遅いけど、できた」

「遅い、はいらん」

「ほな、できた」

久美子は満足そうにうなずいた。

百合子が笑った。

「今日は喧嘩、短かったね」

和枝が時計を見て言った。

「短くても、帰る時間は過ぎてる」

四人は教室を出た。

廊下には、夕方の光が入っていた。
昼間の白い光とは違い、少し赤みを帯びていた。
その赤に、ミサは一瞬だけ足を止めた。

此花の空に広がった赤。
燃え盛る町の赤。
淡路島から見た神戸の赤。

赤い光は、ミサの中でまだ消えていなかった。

けれど、今、廊下に差している赤は、あの時の赤ではなかった。

夕方の赤だった。
学校が終わる赤だった。
四人で帰る時間を知らせる赤だった。

「ミサちゃん?」

百合子が声をかけた。

ミサは、はっとした。

「何でもない」

久美子が少し心配そうに見た。

「ほんまに?」

「ほんま」

「ほんまって言う時、あやしいで」

ミサは思わず笑った。

「それ、くーちゃんに言われたくない」

和枝が言った。

「二人とも、止まってると遅くなる」

四人はまた歩き出した。

廊下を曲がり、階段を下り、昇降口へ向かう。
靴を履き替え、校門へ出る。

外には、市電の音があった。

がたん、がたん。

その音を聞くと、ミサは少しだけほっとした。

戦争が終わった日、ミサはうれしいと言えなかった。
けれど今は、久美子に怒ることができる。
百合子に笑われることができる。
和枝に注意されることができる。

言えること。
言い返せること。
笑えること。

それは、当たり前のようで、当たり前ではなかった。

校門の外で、久美子が言った。

「明日は?」

百合子が笑った。
和枝が「明日は小テスト」と言った。

久美子が叫んだ。

「えっ、ほんま?」

ミサはすぐに言った。

「ほら、また忘れてる!」

四人の声が、夕方の町に重なった。

うるさいと言われれば、うるさかった。
先生に見つかれば、また注意されるような声だった。

けれど、ミサはその声が嫌いではなかった。

黙っていたあの日の家の中とは違う。
喜ぶことさえできなかったあの日とは違う。

今は、声がある。
言葉がある。
友だちがいる。

それだけで、ミサには十分だった。


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第5章 百合子の家

百合子は、何でも控えめだった。

声も大きくない。
歩き方も静か。
笑う時も、口を大きく開けることはあまりなかった。

けれど、百合子がそこにいるだけで、場の空気は少しやわらかくなった。

ミサと久美子が喧嘩をしても、百合子が間に入ると、なぜか少し落ち着いた。
和枝がきちんと注意しても、二人がまだ言い合っている時、百合子が困ったように笑うと、二人とも少しだけ声を落とした。

百合子は、押さえつけない。
命令しない。
けれど、人の気持ちをふっとゆるめるところがあった。

その百合子には、ひとつ隠していることがあった。

ミサは、それに何となく気づいていた。

百合子の持ち物は、いつもきれいだった。
ハンカチも、筆箱も、髪に使う小さな櫛も、どこか上等だった。
派手ではない。
目立つものでもない。
けれど、よく見ると、ほかの子のものとは少し違った。

弁当の包み方も、きれいだった。
制服の着方も、乱れがなかった。
言葉づかいも、家で丁寧に育てられたことがわかるような落ち着きがあった。

けれど、百合子はそのことを見せびらかさなかった。
むしろ、見られるのを避けているようだった。

誰かが持ち物をほめると、百合子はすぐに笑って話をそらした。

「そんなん、普通やよ」

そう言って、鞄の中へしまう。

ミサは、それが少し不思議だった。

自慢する子もいる。
目立ちたがる子もいる。
けれど百合子は、逆だった。
上等なものを持っていることを、できるだけ小さく見せようとしていた。

ある日の放課後だった。

雨が降りそうな空だった。
雲が低く、窓の外の校庭も少し暗く見えた。

四人は教室の後ろで、帰る支度をしていた。

久美子は、いつものように鞄の中を探っていた。
和枝はすでに支度を終え、時計を見ている。
ミサは、久美子の動きを見ながら、口を出すかどうか迷っていた。

百合子が、少し遠慮がちに言った。

「今度、うち来る?」

三人は同時に百合子を見た。

「ゆりちゃんの家?」

ミサが聞くと、百合子はうなずいた。

「うん。たいしたことないけど」

その言い方が、少し早かった。

たいしたことない。

ミサは、その言葉に引っかかった。
百合子がそう言う時は、たいてい何かを隠している時だった。

久美子は、ぱっと顔を明るくした。

「行きたい」

「くーちゃん、返事だけは早いな」

ミサが言うと、久美子はすぐに頬をふくらませた。

「行きたい時は、早いねん」

「それは便利やな」

「ミサちゃんも行きたいくせに」

「行きたいけど」

「ほら」

和枝が静かに言った。

「何時に行くの。場所は。持ち物は」

百合子は少し笑った。

「かずちゃんらしい」

「決めておかないと、誰かが遅れる」

和枝はそう言って、ちらりと久美子を見た。

久美子は慌てて言った。

「私?」

ミサが即座に言った。

「くーちゃん以外に誰がおるん」

「ミサちゃんも、たまに道草するやん」

「私は目的のある道草」

「道草に目的あるん?」

「ある」

「ないと思う」

「あるわ」

また二人が言い合い始めたので、百合子は笑いながら言った。

「ほな、日曜日の昼からでどう?」

和枝は手帳を出した。

「日曜日。昼から。何時?」

「二時くらい」

「二時ちょうど?」

「二時くらい」

和枝は少し眉を寄せた。

「くらい、は危ない」

ミサは笑った。

「かずちゃん、百合子ちゃんにも厳しいな」

「時間には全員に厳しい」

百合子は、少し困ったように笑った。

「じゃあ、二時ちょうど」

「場所は?」

「駅の近くまで迎えに行く」

「迎えに?」

ミサが聞くと、百合子はすぐに言った。

「道、ちょっとわかりにくいから」

その言い方も、少し早かった。

ミサは、また何かを感じた。
けれど、それ以上は聞かなかった。

日曜日、ミサは少し早めに家を出た。

空はよく晴れていた。
雨は前の日の夜に上がり、道の端にまだ少しだけ水が残っていた。
春の光が、濡れた石をちらちら光らせている。

ミサは、待ち合わせの駅へ向かった。

駅前には、百合子が先に来ていた。

いつもの制服ではなく、きちんとした外出着を着ていた。
派手ではないが、布の質がよく、襟元もきれいだった。

ミサは思った。

やっぱり。

でも、まだ口には出さなかった。

少しして、和枝が来た。
時間通りだった。
手には小さな包みを持っている。

「何それ」

ミサが聞くと、和枝は答えた。

「お邪魔するから、母が持って行きなさいって」

「さすが、かずちゃん」

「私ではなく、母」

「それをちゃんと持ってくるのが、かずちゃん」

和枝は少しだけ笑った。

久美子は、来なかった。

三人は時計を見た。

二時ちょうど。

久美子はいない。

二時三分。

まだいない。

二時五分。

ミサは腕を組んだ。

「くーちゃん……」

和枝が言った。

「予想通り」

百合子は困ったように笑った。

「まあ、もう少し待とう」

二時七分になったころ、久美子が角から現れた。

走っているつもりなのだろう。
けれど、あまり速くない。
片手で鞄を押さえ、もう片方の手には包みを持っている。
髪が少し乱れていた。

「ごめん!」

久美子は息を切らして言った。

ミサはすぐに言った。

「二時ちょうどって言うたやん」

「ちょうどに出た」

「家を?」

「うん」

「それは遅刻するに決まってるやん」

「でも、ちゃんと来た」

「来たけど遅い」

「七分だけ」

「七分も」

久美子は頬をふくらませた。

「ミサちゃん、今日も怒るんや」

「今日も遅れるからや」

百合子が間に入った。

「まあまあ、来てくれたからええやん」

和枝は時計を閉じた。

「次からは、集合時間の前に家を出る」

「はい」

久美子は素直にうなずいた。
ミサには素直にうなずかないのに、和枝にはうなずく。
ミサは少しむっとした。

百合子は四人を見て、笑った。

「じゃあ、行こうか」

百合子の案内で、四人は駅前の道を歩いた。

商店の並ぶ通りを抜け、少し静かな道へ入る。
道幅が少し広くなり、家々の門構えが大きくなっていった。
庭の木が塀の上から見える家もあった。

ミサは、だんだん無口になった。

久美子も、少し目を丸くしている。
和枝は表情を変えなかったが、歩く速度が少しゆっくりになった。

百合子は、前を歩いていた。

いつもより少し背中が硬いように見えた。
何でもないように案内しているが、三人の反応を気にしているのがわかった。

やがて、百合子は大きな門の前で立ち止まった。

「ここ」

ミサは、思わず門を見上げた。

立派な家だった。

門が広い。
塀が長い。
中には庭が見えた。
きれいに手入れされた木があり、石が置かれ、奥には大きな玄関があった。

久美子は、口を開けたまま固まっていた。

「ゆりちゃん……ここ?」

百合子は、少しだけ顔を赤くした。

「うん」

「たいしたことないって言うたやん」

ミサが言うと、百合子は小さく笑った。

「私には、家やから」

その言葉には、少し困ったような響きがあった。

家の中から、女中らしい人が出てきた。
百合子に向かって丁寧に頭を下げる。

「お帰りなさいませ」

ミサは、さらに驚いた。

久美子は、ますます固まった。

和枝だけが、きちんと頭を下げた。

百合子は、少し恥ずかしそうに言った。

「友だち。学校の」

「ようこそお越しくださいました」

その丁寧な言葉に、久美子が慌てて頭を下げた。

下げすぎて、持っていた包みが落ちそうになる。

ミサは思わず手を伸ばした。

「くーちゃん、危ない」

「大丈夫!」

久美子は包みを抱え直した。

ミサは小声で言った。

「今のは危なかった」

「落としてへん」

「落とす前」

「またそれ」

百合子が笑った。

その笑いには、少しほっとしたような音が混じっていた。

玄関に入ると、広かった。

たたきが広く、磨かれた床が奥まで続いている。
靴を脱ぐ場所だけでも、ミサの家の玄関とは違っていた。
壁にはきれいな絵が掛かり、廊下の奥からは畳の匂いがした。

久美子は靴を脱ぐのにもたついた。

片方を脱いで、もう片方を脱ごうとして、体が少し傾く。

「くーちゃん」

ミサが言いかけると、久美子はすぐに言った。

「自分で脱げる」

「まだ何も言うてへん」

「顔が言うてた」

「今日そればっかりやな」

和枝は、靴の向きをそろえながら言った。

「人の家では静かに」

「はい」

ミサと久美子は同時に答えた。

その声がそろったので、百合子がまた笑った。

客間へ通された。

広い座敷だった。
障子からやわらかい光が入っている。
畳は青く、床の間には掛け軸がかかっていた。
その横に、大きな花瓶が置かれていた。

立派な花瓶だった。

つやのある肌に、花の模様が描かれている。
中には、枝ぶりのきれいな花が生けられていた。

久美子は、それを見て、目を丸くした。

「きれい……」

「触ったらあかんで」

ミサがすぐに言った。

久美子は、むっとした。

「触らへん」

「見てる距離が近い」

「見てるだけやん」

「見てるだけで危ない時あるやん」

「ない」

「くーちゃんにはある」

「ひどい」

百合子は慌てて言った。

「大丈夫やよ。見るくらい」

和枝は座布団の位置を見ていた。

「座る場所、決まってる?」

百合子は少し笑った。

「そんなに決まってないよ」

それでも和枝は、きちんと座布団の端をそろえてから座った。

ミサも座った。
久美子は座ろうとして、少し足をもつれさせた。
ミサは思わず腰を上げかけたが、久美子は何とか座った。

そして、ミサを見た。

「座れた」

「座るくらい、みんなできる」

「今、私には大事やった」

百合子が笑った。

しばらくして、百合子の母が入ってきた。

上品な人だった。
声がやわらかく、着物の動きも静かだった。
百合子のやわらかさは、この人に似たのだとミサは思った。

「百合子のお友だちですね。よう来てくださいました」

三人は慌てて頭を下げた。

和枝はきちんと挨拶した。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

ミサも続いた。

「ありがとうございます」

久美子は少し遅れて頭を下げた。

「ありがとう、ございます」

百合子の母は、にこにこしていた。

「ゆっくりしていってくださいね」

お茶と菓子が運ばれてきた。

菓子は、小さくてきれいだった。
久美子は、それを見てまた目を丸くした。

「これ、食べてええの?」

ミサは小声で言った。

「出してくれてるんやから、ええに決まってるやん」

「きれいやから」

「見てるだけやったら、なくならへんで」

「それもそうやね」

久美子は真剣にうなずいた。

百合子は恥ずかしそうに笑った。

そのうち、話は学校のことになった。

先生が厳しいこと。
服装検査のこと。
久美子がいつも遅いこと。
ミサがすぐ怒ること。
和枝がいつも時計を見ること。

百合子の母は、それを楽しそうに聞いていた。

「百合子は、家ではあまり学校のことを話さないんです」

百合子が少し慌てた。

「お母さま」

「でも、今日はよくわかりました。楽しそうで、安心しました」

その言葉に、百合子は少し黙った。

ミサは、その横顔を見た。

百合子は、この家のことを隠していた。
お金持ちだと知られたくなかった。
それは、ただ謙遜していたからではない。
疎開先で嫌な思いをしたからだと、あとでミサは知ることになる。

お金持ちの子。
よそ者。
違う家の子。

そういう言葉は、子どもの世界でも刃物になる。

百合子は、その刃物を知っていたのだ。

だから、学校では普通の顔をしていた。
普通の友だちとして、普通に笑っていた。

ミサは、少しだけ胸が痛くなった。

自分が淡路島でよそ者だったように、百合子にも百合子のよそ者の記憶があったのかもしれない。

そのときだった。

久美子が立ち上がろうとした。

「お手洗い、どこかな」

百合子が立ち上がった。

「案内する」

「うん」

久美子は座布団から立ち上がった。
けれど、足が少ししびれていたらしい。
立った瞬間、体がぐらりと揺れた。

「くーちゃん!」

ミサが叫んだ。

久美子は慌てて近くの柱に手をつこうとした。
けれど、そこに柱はなかった。
手が宙を泳ぎ、体が横へ流れた。

その先に、床の間があった。

花瓶があった。

久美子の手が、花瓶の胴に当たった。

大きな花瓶が、ゆっくり傾いた。

ミサは、とっさに飛び出した。

受け止めようとした。
けれど、花瓶は思ったより重く、つるりと手の中を滑った。

一瞬、時間が止まったように見えた。

百合子が息をのむ。
和枝が立ち上がる。
久美子が目を大きく開く。
ミサの手が、花瓶の表面をかすめる。

次の瞬間、花瓶は畳の上に落ちた。

鈍い音がして、割れた。

大きな破片が畳の上に散った。
花が倒れ、水が広がった。
畳の青い匂いに、水の匂いが混じった。

誰も、すぐには動かなかった。

久美子は、顔を真っ白にして立っていた。

百合子は口元を押さえている。
和枝は、割れた破片を見て、動かない。
百合子の母も、驚いた顔で立ち上がっていた。

ミサは、一歩前へ出た。

「私が割りました」

声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。

久美子が、ゆっくりミサを見た。

「違う」

小さな声だった。

ミサは振り向いた。

「くーちゃん、黙っとき」

「違う」

久美子の声が、少し大きくなった。

「私が割りました」

ミサは久美子の方を向いた。

「何言うてるの。私が受け損ねたんやから、私や」

「最初に当たったんは、私やもん」

「それは転びかけたからやろ」

「転びかけた私が悪い」

「私がちゃんと受けてたら割れてへん」

「ミサちゃんは助けようとしただけやん」

「助けられてへんから割れたんやん」

「でも、私が当てたんやもん!」

久美子の顔が、みるみる赤くなっていった。

頭の先から、耳、頬、首まで、全部が赤くなるようだった。
目には涙が浮かんでいた。
けれど、口はしっかり結ばれていた。

ミサは言った。

「くーちゃん、こういう時は黙っとき」

「黙れへん!」

「なんで!」

「だって、私が悪いのに!」

「私が悪いって言うてるやん!」

「ミサちゃん、すぐそうやってかばう!」

「かばってへん! 本当のこと言うてる!」

「私も本当のこと言うてる!」

「くーちゃんの本当は、だいたいややこしい!」

「ミサちゃんの本当は、いつも怒ってる!」

「怒ってへん!」

「怒ってる!」

「今は怒ってる!」

「ほら!」

二人の声が、座敷に響いた。

割れた花瓶の前で、二人は大喧嘩を始めていた。

百合子は、最初はどうしていいかわからない顔をしていた。
けれど、だんだん口元がゆるんできた。

和枝は、破片を見ながら、二人を見て、それから百合子の母を見た。
何か言うべきか、止めるべきか、順番を考えているようだった。

百合子の母は、怒っていなかった。

むしろ、にこにこしていた。

それに気づいて、ミサは一瞬、言葉を失った。

「お母さま……」

百合子が小さく言うと、母は静かに言った。

「けがはありませんか」

その声で、四人ははっとした。

ミサは久美子の手を見た。

「くーちゃん、手」

「大丈夫」

「ほんま?」

「ほんま」

「見せて」

「自分で見れる」

「ええから見せなさい」

「また怒ってる」

「心配してるんや!」

久美子は、少しだけ手を差し出した。
ミサは確認した。
傷はなかった。

百合子の母は、ほっとしたようにうなずいた。

「けががないなら、よかったです」

ミサは慌てて頭を下げた。

「すみませんでした。私が――」

久美子がかぶせるように言った。

「私が割りました」

「くーちゃん!」

「ミサちゃん!」

また二人が向かい合った。

その時、百合子の母が声を立てて笑った。

静かな、でも本当に楽しそうな笑いだった。

四人は、驚いて百合子の母を見た。

百合子の母は言った。

「百合子、ええお友だちができましたね」

百合子は、少し目を潤ませていた。

「はい」

その声は小さかった。

ミサは、何を言えばいいかわからなかった。
久美子も、頬を赤くしたまま、口を閉じた。

和枝が、ようやく動いた。

「まず、破片を片づけましょう。素手で触ると危ないです」

その言葉で、場が動き出した。

百合子の母が人を呼び、布と箱が用意された。
和枝は、破片に近づかないようにみんなの足元を見た。
百合子は倒れた花をそっと拾った。
ミサは水を拭こうとして、久美子と同時に布に手を伸ばした。

二人の手がぶつかった。

「私が拭く」

ミサが言う。

「私が拭く」

久美子も言う。

「くーちゃんは座っとき」

「いや」

「また何か倒したらどうするん」

「もう倒さへん」

「今は信用できへん」

「ひどい!」

「でも心配なんや!」

その言葉が出た瞬間、久美子は黙った。

ミサも、自分の言葉に少し驚いた。

心配なんや。

いつもは怒っているように聞こえる言葉の奥に、本当はそれがあった。

久美子は、少し下を向いた。

「心配せんでも、自分でできる時もある」

ミサは小さく答えた。

「わかってる」

「ほんまに?」

「ほんま」

「ほんまって言う時、あやしい」

ミサは思わず笑った。

「それ、私の台詞や」

百合子が、涙ぐみながら笑った。

「もう、二人とも」

和枝は布を持ちながら言った。

「笑ってる場合ではないけど、でも、けががなくてよかった」

百合子の母は、その様子を静かに見ていた。

割れた花瓶は、元には戻らなかった。
どれだけ丁寧に拾っても、破片は破片だった。
けれど、その座敷にあった空気は、不思議と悪くなかった。

むしろ、何かがほどけたようだった。

百合子は、ぽつりと言った。

「私、あんまり家に友だち呼びたくなかったん」

三人は百合子を見た。

百合子は、少し恥ずかしそうに笑った。

「前に、疎開先で、家のことでいろいろ言われたことがあって。お金持ちやとか、ええなあとか、ずるいとか。私は何もしてへんのに、そう言われるのが嫌やった」

ミサは黙って聞いた。

久美子も、もう拗ねていなかった。

百合子は続けた。

「だから、学校では普通にしてたかった。普通の友だちでいたかった」

ミサは、百合子の顔を見た。

いつもやわらかく笑っている百合子にも、隠している痛みがあった。
それを、今日初めて知った気がした。

ミサは言った。

「ゆりちゃんは、ゆりちゃんやん」

百合子が顔を上げた。

ミサは少し照れくさくなったが、続けた。

「家が大きくても、小さくても、ゆりちゃんはゆりちゃんやろ」

久美子もうなずいた。

「そうやよ。花瓶は大きかったけど」

「くーちゃん!」

ミサが叫ぶと、久美子は慌てた。

「違う、そういう意味ちゃう!」

百合子が吹き出した。

和枝も、とうとう笑った。

百合子の母も笑っていた。

久美子は真っ赤になって言った。

「もう、私、しゃべらん」

ミサはすぐに言った。

「それは無理やろ」

「無理ちゃう」

「すぐしゃべる」

「しゃべらへん」

「今しゃべってる」

「あ」

久美子は口を押さえた。

座敷に笑いが広がった。

割れた花瓶の前で笑うのは、少しおかしなことだった。
けれど、その笑いは軽いものではなかった。

誰かの家の大きさ。
誰かの失敗。
誰かの恥ずかしさ。
誰かの隠していた記憶。

そういうものを、四人で少しずつ持ち合ったような笑いだった。

帰るころには、空が夕方に近づいていた。

百合子の母は、最後まで怒らなかった。
むしろ、三人に菓子を持たせてくれた。

「また来てくださいね」

その言葉に、百合子が少し驚いた顔をした。

ミサは頭を下げた。

「ありがとうございます」

久美子も頭を下げた。

「すみませんでした」

百合子の母は、久美子にやさしく言った。

「けががなくて、ほんとうによかったです」

久美子は、また泣きそうな顔になった。

門を出ると、四人はしばらく黙って歩いた。

行きとは違って、帰り道は少し近く感じた。
百合子の家が大きいことを知っても、百合子が遠くなったわけではなかった。

むしろ、近くなった気がした。

駅へ向かう道で、ミサが言った。

「くーちゃん」

「何」

「次、人の家で立つ時は、まず足がしびれてへんか確認しなさい」

久美子は、すぐに頬をふくらませた。

「今それ言う?」

「大事やから」

「ミサちゃんも、花瓶受ける時はちゃんと受けて」

「無理言うな。あれ重かったわ」

「ほな、私だけ悪くないやん」

「悪いけど、私も悪い」

「また始まる」

百合子が笑った。

和枝が言った。

「でも今日は、二人とも反省すること」

「はい」

ミサと久美子は同時に答えた。

その声がそろったので、四人はまた笑った。

市電の音が聞こえてきた。

がたん、がたん。

夕方の町を、市電がゆっくり近づいてくる。

ミサは、横を歩く百合子を見た。
百合子は、いつものようにやわらかく笑っていた。
でもその笑顔は、前より少しだけ楽に見えた。

その日から、百合子はほんの少し変わった。

自分の家のことを隠そうとする肩の力が、少し抜けた。
上等なハンカチを持っていても、前ほど慌ててしまわなくなった。
そして時々、自分から家の話をするようになった。

ミサも、少し変わった。

人には、人に見せていない痛みがある。
自分だけが一人だったわけではない。
百合子にも、久美子にも、和枝にも、それぞれの事情がある。

それを、少しだけ知った。

けれど、ミサと久美子の喧嘩は減らなかった。

翌日、教室で久美子が百合子の家からもらった菓子を鞄の中でつぶしかけた時、ミサはまた叫んだ。

「くーちゃん!」

久美子は、すぐに言い返した。

「まだ、つぶれてへん!」

百合子は笑った。
和枝は時計を見た。

いつもの四人だった。

でも、少しだけ違っていた。

四人の間に、割れた花瓶の音が残っていた。
その音は、失敗の音ではあったけれど、四人の距離が近づいた音でもあった。


序章 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 最終章


第6章 水の中の米

そのころ、学校の国語の時間に、先生が新しい詩の話をした。

茨木のり子

名前だけを聞いても、ミサにはまだよくわからなかった。
けれど、先生が読んでくれた詩の中には、教科書の古い言葉とは違う、今を生きている人の息づかいがあった。

難しい言葉ではない。
けれど、胸の奥に残る。

その日の帰り道、ミサはふと、昔の茶碗を思い出した。
水の中に、米粒が少しだけ浮いていた茶碗。

あれも、詩になるのだろうか。

そう思った。

ーーーー

水の中の米

米と呼ばれていた

けれど
茶碗の中にあったのは
白いご飯ではなかった

水だった

その水の中に
米粒が
二つ
三つ
頼りなく浮いていた

箸ではつかめない
匙ですくっても
口に入るのは
ほとんど水だった

それでも母は言った

食べなさい

私は
はい
と言った

これがご飯なのか

そう思ったけれど
言わなかった

言えば
母の顔が困る

母の顔が困るくらいなら
私のお腹が空いている方が
まだよかった

食卓には
遠慮する音があった

茶碗を置く音
箸を休める音
「もうええわ」と言う母の声

もうええわ

それが
本当は
もう十分
ではないことを
子どもは知っている

子どもだから
わからないのではない

子どもだからこそ
わかってしまうことがある

母の茶碗の底
弟の目
自分の喉を通っていく水

ひもじいとは
お腹が空くことだけではなかった

もっとほしいと
言えないことだった

言えば
誰かの分が減ると
知っていることだった

米粒を数えるように
人の我慢を数えてしまうことだった

あれから十年がたった

私は女子校生になった

制服を着て
髪を整え
教科書を抱えて
市電に乗る

友だちがいる

久美子は忘れ物をする
百合子はやさしく笑う
和枝は時間を気にする
私はすぐ怒る

昼休みには
お弁当を広げる

少しつぶれたおむすびを見て
私は言う

くーちゃん
またつぶれてる

久美子は笑って言う

食べたら一緒やもん

その言葉に
私は少し黙る

食べたら一緒

ほんとうに
そうだった

形がくずれても
塩が少なくても
海苔が片寄っていても

食べられるなら
それはご飯だった

あの日
水の中で揺れていた米粒を
私は忘れていない

忘れたくても
忘れられない

けれど
忘れないことは
暗く沈むことではない

私は今
声を出す

怒る
笑う
言い返す
友だちの名前を呼ぶ

くーちゃん
ゆりちゃん
かずちゃん

そのたびに
茶碗の底に沈んでいた私が
少しずつ顔を上げる

水の中の米粒よ

あなたは
貧しさの記憶だった

けれど今は
私に教えてくれる

食べられること
笑えること
誰かと机を並べること
明日も会えること

それは
当たり前ではない

だから私は
今日のおむすびを
笑いながら食べる

少しつぶれていても
かまわない

友だちと食べるご飯は
もう
水ではない

ーーーー

ミサは、その詩を三人に見せた。

見せるまでは、少し得意な気持ちもあった。
けれど、いざ紙を渡してしまうと、急に恥ずかしくなった。

自分の中にあった、ひもじさ。
言えなかったこと。
母の茶碗の底。
水の中に浮いていた、数えられそうな米粒。

それを紙の上に出してしまったようで、ミサは落ち着かなかった。

久美子は、紙を両手で持って読んでいた。
途中で何度か首をかしげた。

「むずかしいな」

そう言ったあと、少し間を置いて、

「でも、なんか、苦しい」

と小さくつぶやいた。

和枝は、最後まで黙って読んだ。
読み終えてからも、すぐには何も言わなかった。

「水の中の米、か」

和枝はそう言って、紙の端を指でそっとなぞった。

「すごく、残る言葉やと思う」

ミサは、少しだけほっとした。

けれど、百合子だけが何も言わなかった。

百合子は、その詩を黙って読んでいた。
いつものように背筋を伸ばし、紙の端を両手でそっと持っていた。

最初は、静かな顔をしていた。

けれど、読み進めるうちに、百合子の指先が少し震えた。

ミサは、それに気づいた。

「ゆりちゃん?」

百合子は返事をしなかった。

紙の上に視線を落としたまま、じっとしていた。
やがて、ぽたり、と小さな音がした。

紙の上に、涙が落ちていた。

久美子が驚いて顔を上げた。

「ゆりちゃん、どうしたん?」

和枝も、すぐに百合子の方を見た。

百合子は、首を横に振ろうとした。
大丈夫、と言おうとしたのだと思う。

けれど、声が出なかった。

もう一粒、涙が落ちた。

百合子は、紙を胸に抱くようにして、うつむいた。

「ごめん……」

それだけ言った。

ミサは、何も言えなかった。

百合子が泣くところを、ミサはほとんど見たことがなかった。
百合子はいつも、泣く前に笑う子だった。
誰かが困ると、自分のことは後回しにして、先に相手をなだめる子だった。

その百合子が、声も出せずに泣いていた。

「ゆりちゃん」

ミサがもう一度呼ぶと、百合子はようやく顔を上げた。

目が赤かった。
けれど、泣き顔までどこか我慢しているようだった。

「私も……」

百合子は、そこで言葉を止めた。

少し息を吸って、もう一度言った。

「私も、疎開先で、嫌なことがあったん」

教室の空気が、少し変わった。

さっきまで昼休みのざわめきがあったはずなのに、四人の周りだけ、音が遠くなったようだった。

百合子は、紙を見つめたまま続けた。

「私の家、少し大きいやろ」

ミサも、久美子も、和枝も、すぐには答えなかった。

百合子の家へ行った日のことが、三人の頭に浮かんでいた。
大きな門。
広い玄関。
女中の人の丁寧な挨拶。
座敷。
床の間。
そして、割れてしまった花瓶。

百合子は、小さく笑おうとした。
けれど、笑えなかった。

「疎開先でな、それを知られてしもたん」

ミサは黙って聞いた。

「最初は、ただ言われるだけやった」

百合子の声は、静かだった。
静かなのに、聞いている方の胸が苦しくなる声だった。

「お金持ちの子や、って。ええなあ、って。家に物があるんやろ、って。あんたは困ってへんのやろ、って」

百合子は、紙の端をぎゅっと握った。

「でも、私は何も持ってへんかった。そこでは、みんなと同じやった。家からも離れてたし、母も父も近くにはおらんかったし、怖かったし、お腹も空いてた」

久美子の目に、もう涙が浮かんでいた。

百合子は続けた。

「でも、言ってもわかってもらえへんかった」

その声が、少し震えた。

「笑われた。
服のことを言われた。
言葉づかいをまねされた。
歩き方が気取ってるって言われた。
何もしてへんのに、澄ましてるって言われた」

ミサの手が、膝の上でぎゅっと固くなった。

百合子は、少しだけ目を閉じた。

「手を出されたこともあった」

久美子が小さく息をのんだ。

「廊下で押された。
物を隠された。
お弁当を見られて、ええもん食べてるんやろって言われた。
そんなこと、なかったのに」

百合子の涙が、また落ちた。

「遊びの輪にも、入れてもらえへんかった」

百合子は、ぽつりぽつりと言った。

「私が近づくと、みんな散っていく。
声をかけても、聞こえへんふりをされる。
後ろから笑われる。
名前じゃなくて、お嬢さんって呼ばれる」

その「お嬢さん」という言葉が、ひどく冷たく聞こえた。

百合子は、震える声で続けた。

「石を投げられたこともあった」

その瞬間、ミサは顔を上げた。

「石?」

百合子は、ゆっくりうなずいた。

「大きな石やないよ。小さい石。けど、痛かった」

久美子の頬を、涙がつーっと流れた。

「なんで……」

久美子の声は、怒っているのか、悲しんでいるのかわからなかった。

「なんで、そんなことするん……」

百合子は首を横に振った。

「わからへん」

それから、小さく言った。

「でも、その時は、私が悪いんかなって思った」

ミサは思わず言った。

「悪いわけないやん」

声が大きくなった。
でも、誰も止めなかった。

ミサは続けた。

「ゆりちゃん、何も悪ないやん。家が大きいからって、何が悪いん。着てるもんがきれいやからって、何が悪いん。ゆりちゃんが何したんよ」

百合子は、ミサを見た。

その目は、涙で濡れていた。

「私も、そう思いたかった」

その言葉で、ミサは黙った。

思いたかった。

それは、思えなかったということだった。

百合子は、自分が悪くないとわかっていても、ずっと自分を責めていたのだ。
大きな家に生まれたこと。
きれいな物を持っていたこと。
丁寧に育てられたこと。

それらを、まるで悪いことのように思わされていたのだ。

久美子は、もう声を出して泣いていた。

「ゆりちゃん……」

いつものように頬をふくらませる余裕もなかった。
言葉も見つからないまま、百合子の袖をそっとつかんだ。

和枝も、静かに泣いていた。

和枝が泣くところを、ミサは初めて見たかもしれない。
いつも時間を見て、持ち物を確かめ、正しいことをきちんと言う和枝が、今は何も言わずに涙をこぼしていた。

百合子は、それを見て、かえって困ったように笑った。

「ごめんね。こんな話して」

「ごめんちゃう」

ミサはすぐに言った。

「ごめんちゃうわ」

百合子は驚いたようにミサを見た。

ミサは、うまく言葉を選べなかった。
いつものように強い言い方しかできなかった。

けれど、どうしても言いたかった。

「ゆりちゃんが、そんなこと一人で持ってたんが嫌や」

百合子の顔がくしゃっとなった。

ミサは続けた。

「うちら、友だちやん」

その言葉を言った瞬間、久美子がさらに泣いた。

「そうやよ……友だちやよ……」

久美子は、しゃくりあげながら言った。

「私、花瓶割った時も、ゆりちゃんのお母さん、怒らんといてくれた。ゆりちゃんも怒らんかった。私、ずっと申し訳ないって思ってたけど、でも、あの時うれしかったんやで」

百合子は、久美子を見た。

久美子は涙を拭きながら続けた。

「ゆりちゃんの家が大きいとか、小さいとか、そんなこと、どうでもええ。ゆりちゃんは、ゆりちゃんやもん」

それは、あの日、ミサが言った言葉と同じだった。

百合子の目から、また涙が落ちた。

和枝が、静かに言った。

「百合子ちゃん」

その声は、いつもの和枝より少し柔らかかった。

「その人たちは、百合子ちゃんのことを見てなかったんやと思う」

百合子は、和枝を見た。

「家とか、持ち物とか、そういうものだけ見て、百合子ちゃん本人を見てなかった」

和枝は涙を拭きもせず、まっすぐ言った。

「私たちは、見てる」

百合子は、息を止めたような顔をした。

和枝は続けた。

「百合子ちゃんが、いつも人の間に入ってくれること。
誰かが困った時、先に気づくこと。
怒らずに笑ってくれること。
自分のことを後回しにしすぎること」

そこで、和枝の声が少し震えた。

「そういう百合子ちゃんを、私たちは知ってる」

百合子は、もうこらえられなかった。

紙を胸に抱いたまま、声を出して泣いた。

久美子が百合子に抱きついた。

「ゆりちゃん、もう大丈夫やから」

ミサは、すぐに言った。

「くーちゃん、それ言い方雑」

「今それ言う?」

久美子は泣きながら怒った。

でも、その声に少しだけいつもの久美子が戻っていた。

百合子は、泣きながら笑った。

ミサも、涙が出そうになった。

いや、もう出ていた。

悔しかった。

百合子をいじめた子たちに腹が立った。
百合子が一人で耐えていた時間に腹が立った。
そして、今日まで気づけなかった自分にも腹が立った。

ミサは、百合子の前にしゃがんだ。

「ゆりちゃん」

百合子は涙で濡れた顔を上げた。

「これからは、そういう話、ちゃんと言うて」

百合子は小さく首を振った。

「言うたら、みんな困るかと思って」

「困る」

ミサはすぐに言った。

百合子が少し驚いた。

ミサは続けた。

「困るに決まってるやん。そんな話聞いたら、困るし、腹も立つし、泣くわ」

久美子がうなずいた。

「泣く」

和枝も、小さくうなずいた。

「泣く」

ミサは言った。

「でも、知らんままの方が嫌や」

百合子は、唇を震わせた。

ミサは、できるだけ強くならないように言った。

「友だちって、そういうことやろ」

その言葉のあと、四人はしばらく黙った。

誰も、きれいな言葉を探せなかった。
誰も、すぐに笑い話にできなかった。

ただ、同じ場所で泣いていた。

教室の外では、いつもの学校の音がしていた。
誰かが廊下を歩く音。
遠くで先生が話す声。
窓の外を通る風の音。

でも、四人の間だけは、別の時間になっていた。

百合子が、ようやく小さな声で言った。

「話してよかった」

その一言で、久美子がまた泣いた。

「また泣くん?」

ミサが言うと、久美子は涙を拭きながら言った。

「だって、よかったって言うから」

「くーちゃんは忙しいな」

「ミサちゃんも泣いてるやん」

「泣いてへん」

「泣いてる」

「これは……目に何か入っただけ」

「それ、言い訳や」

百合子が泣きながら笑った。

和枝も、涙を拭きながら少し笑った。

その笑いは、いつもの明るい笑いではなかった。
けれど、ちゃんと四人の笑いだった。

悲しい話を聞いたあとでも、四人は四人でいられた。

百合子は、紙をそっとたたんだ。

「この詩、私、忘れへんと思う」

ミサは聞いた。

「つらかった?」

百合子は少し考えた。

「つらかった」

そして、もう一度言った。

「でも、うれしかった」

「うれしい?」

百合子はうなずいた。

「私だけやなかったんやと思った。
ひもじさも、寂しさも、言えなかったことも、形は違うけど、みんな何か持ってたんやなって」

ミサは黙った。

百合子は続けた。

「だから、もう隠さんでもええかなって、少し思えた」

ミサは、胸の奥が熱くなった。

「隠さんでええ」

久美子も言った。

「隠さんでええ」

和枝も言った。

「隠す必要はない」

百合子は、三人を見た。

そして、泣きはらした顔で、いつものようにやわらかく笑った。

その笑顔を見た時、ミサは思った。

友だちになるというのは、一緒に笑うことだけではないのだ。

誰かが隠していた傷を見せた時、
その傷の前から逃げずに、
一緒に泣くこと。

それも、友だちになるということなのだ。

その日、四人は少しだけ大人になった。

そして少しだけ、前より近くなった。


序章 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 最終章


第7章 くーちゃんを外した日

久美子は、いつも遅かった。

それは、もう四人の中では当たり前のことになっていた。

朝の集合に遅れる。
教室を出るのが遅れる。
鞄を閉めるのに遅れる。
道を歩くのも遅れる。

最初のころは、ミサが怒った。
次に和枝が注意した。
百合子が笑ってなだめた。
久美子が拗ねた。

そして、結局四人で待った。

それが、いつもの形だった。

けれど、いつもの形が、いつも楽しいとは限らなかった。

その日、四人は放課後に少し遠くの店へ行く約束をしていた。
学校から市電に乗り、途中で降りて、文房具を見に行く。
和枝が使っているきれいなノートを、みんなで見に行こうという話だった。

本当は、ただの文房具屋だった。

けれど、女子校生にとっては、それでも十分楽しい予定だった。
新しいノート。
鉛筆。
消しゴム。
便箋。
小さな封筒。
お金はあまり使えない。
買えるものも限られている。
それでも、見て歩くだけで楽しかった。

和枝は、前の日から時間を決めていた。

「授業が終わったら、すぐ帰り支度。校門に三時四十分」

「三時四十分?」

久美子が聞き返した。

「そう。三時四十分」

「三時半ではあかんの?」

「三時半は早すぎる」

「四時では?」

「遅すぎる」

「ほな、三時四十分」

「そう」

和枝は手帳に書いた。

久美子も、何かに書こうとして鞄を探った。
けれど、鉛筆がなかなか出てこなかった。

ミサはすぐに言った。

「くーちゃん、書く前に鉛筆探しで時間かかってるやん」

「今、出すところ」

「明日までに出る?」

「出るわ!」

百合子が笑った。

「じゃあ、くーちゃん、三時四十分やよ」

「うん。三時四十分」

久美子は、ようやく出てきた鉛筆で手帳に書いた。

その文字は、少し大きくて、紙の端に寄っていた。

ミサはのぞき込んだ。

「それ、三時四十分って読める?」

「読める」

「三時九十分に見える」

「そんな時間ない」

「ないから困るんやん」

「ミサちゃん、うるさい」

「明日遅れたら怒るで」

「遅れへん」

久美子は、そう言った。

言ったのだった。

翌日、授業が終わると、和枝はすぐに鞄を閉めた。
百合子も、静かに支度を終えた。
ミサも、少し急いだ。

久美子は、まだ机の中を見ていた。

「くーちゃん、早く」

ミサが言うと、久美子は顔を上げた。

「ちょっと待って」

「三時四十分やで」

「わかってる」

「今、三時三十五分」

「まだ五分ある」

「くーちゃんの五分は、普通の五分ちゃう」

「どういう意味」

「長くなる」

「長くならへん」

和枝が時計を見た。

「校門まで歩く時間も入れて、もう出た方がいい」

久美子は慌てて鞄を閉めようとした。
けれど、留め金がうまく合わない。

ミサは手を出しかけた。

久美子はすぐに鞄を胸に抱えた。

「自分でできる」

「じゃあ、して」

「今してる」

「できてへん」

「できるところ」

「それ、いつものやつやん」

百合子がそっと言った。

「くーちゃん、今日は少し急ごう」

百合子に言われると、久美子は少し素直になった。

「うん」

けれど、その「うん」からが遅かった。

鞄を閉める。
机の中をもう一度見る。
忘れ物がないか確認する。
確認したはずなのに、また鞄を開ける。

ミサの中で、何かがぷつっと切れそうになった。

「もう、先行くで」

思わず言った。

久美子は、顔を上げた。

「え」

「校門で待ってる」

「すぐ行く」

「ほんまにすぐやで」

「うん」

ミサは教室を出た。
和枝も続いた。
百合子は少し迷ったが、久美子に言った。

「くーちゃん、待ってるからね」

「うん」

久美子は、そう言ってうなずいた。

三人は校門へ向かった。

廊下を歩きながら、ミサは少しだけ後ろを気にした。
久美子が来る気配はない。

和枝は時計を見た。

「三時三十九分」

「校門に着くころには四十分やな」

ミサが言った。

百合子は、少し心配そうに振り返った。

「くーちゃん、大丈夫かな」

「大丈夫やろ。校門までやで」

ミサはそう言った。
けれど、自分の声が少し冷たかったことに気づいた。

校門に着いた。

三時四十分。

久美子は来なかった。

三時四十二分。

来なかった。

三時四十五分。

まだ来なかった。

ミサは腕を組んだ。

「もう、ええんちゃう」

百合子がミサを見た。

「え?」

「今日は三人で行こう」

言った瞬間、自分でも少し強い言い方だと思った。

和枝は時計から顔を上げた。

「でも、約束は四人で」

「約束守ってへんの、くーちゃんやん」

ミサは言った。

「いつもいつも待って、結局こっちが遅れる。今日はちゃんと時間決めたのに」

百合子は黙った。

和枝も、少し考えていた。

ミサは続けた。

「一回くらい、置いて行かれてもええと思う」

その言葉を言った時、胸の奥が少し痛んだ。

置いて行く。

その言葉は、自分が一番嫌いな言葉のはずだった。

淡路島で一人だったころの自分が、どこかでこちらを見たような気がした。

けれど、ミサはその気配を振り払った。

「行こう」

ミサは歩き出した。

百合子はためらった。

和枝も、もう一度時計を見た。

その時、校舎の方から久美子が走ってくる姿が見えた。

遅い走り方だった。
鞄を抱え、髪を揺らし、何かを必死で言おうとしている。

けれど、ミサは見ないふりをした。

「ミサちゃん」

百合子が小さく言った。

「行こう」

ミサはもう一度言った。

和枝は、苦しそうな顔をした。
けれど、歩き出したミサについていった。

百合子も、最後に一度だけ振り返ってから、歩いた。

三人は市電の停留所へ向かった。

後ろから、久美子の声が聞こえた気がした。

「待って」

本当に聞こえたのか、ミサの胸の中で聞こえただけなのか、わからなかった。

市電に乗っても、三人はあまり話さなかった。

いつもなら、久美子が何かを言い間違える。
ミサがそれに突っ込む。
百合子が笑う。
和枝が「車内では静かに」と注意する。

その流れがない。

市電の音だけが、がたん、がたんと響いていた。

ミサは窓の外を見た。

商店が流れていく。
自転車が見える。
道を歩く人がいる。
いつもの町なのに、少し色が薄く見えた。

百合子が小さく言った。

「くーちゃん、怒ってるかな」

ミサはすぐには答えなかった。

和枝が言った。

「怒ってると思う」

「かずちゃん、はっきり言うなあ」

ミサが言うと、和枝はまっすぐ前を向いたまま答えた。

「怒って当然やと思う」

ミサは黙った。

百合子も黙った。

市電の中で、三人は座っていた。
けれど、三人でいる感じがしなかった。
四人のうち一人がいないだけで、席の間に大きな穴が空いたようだった。

目的の文房具屋に着いても、気持ちは晴れなかった。

店には、きれいなノートが並んでいた。
表紙に花の模様があるもの。
線が細く引かれているもの。
少し高いけれど、紙の質がよさそうなもの。

和枝は、いつもなら目を輝かせたはずだった。
けれど、その日は手に取ってもすぐに戻した。

百合子も、便箋を見ながらため息をついた。

ミサは、鉛筆を一本手に取った。
その鉛筆を見て、久美子が昨日鉛筆を探していた姿を思い出した。

鞄の中をごそごそ探る久美子。
「今、出すところ」と言いながら、全然出てこない久美子。
頬をふくらませる久美子。

ミサは、鉛筆を戻した。

「楽しくないな」

自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。

百合子がミサを見た。

和枝も見た。

ミサは、少し顔をそむけた。

「くーちゃん、おらんかったら、静かすぎる」

百合子は、ほっとしたように笑った。

「そうやね」

和枝は小さくうなずいた。

「うるさい方が、いつも通り」

ミサは、胸の奥がずきりとした。

「帰ろう」

そう言って、ミサは店を出た。

百合子と和枝も、何も買わずについてきた。

外へ出ると、空は少し曇っていた。
夕方にはまだ早いのに、光が弱くなっていた。

三人は、来た道を戻った。

市電に乗る前、百合子が言った。

「くーちゃん、まだ学校にいるかな」

和枝が答えた。

「帰っているかもしれない」

ミサは言った。

「探す」

二人は、ミサを見た。

「探すわ」

ミサはもう一度言った。

その声には、さっきまでの意地がなかった。

学校の近くまで戻ると、三人は校門へ急いだ。

校門の前には、もう生徒は少なかった。
放課後のざわめきも、ほとんど消えていた。
校舎の窓には、夕方の光が淡く入っている。

久美子の姿はなかった。

「帰ったんかな」

百合子が言った。

ミサは、校門の外を見回した。

その時、塀の向こうの細い道で、何かが動いた。

ミサは目を凝らした。

制服の裾。
鞄。
そして、見慣れたおかっぱ頭。

久美子だった。

久美子は、塀の陰に隠れるようにして立っていた。
泣いていた。

いや、泣いているのを隠そうとしていた。

でも、隠れ方が下手だった。

鞄の端が見えている。
靴も見えている。
何より、鼻をすする音が聞こえている。

ミサは、思わず言った。

「くーちゃん」

久美子は、びくっとした。

そして、逃げようとした。

けれど、慌てたせいで、足元の小石につまずいた。

「危ない!」

ミサが駆け寄った。

久美子は転ばなかった。
けれど、もう隠れることはできなかった。

顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
目も鼻も赤かった。
頬は、怒っているのか泣いているのか、どちらかわからないくらい赤かった。

ミサは息を切らして立ち止まった。

「くーちゃん」

久美子は、顔を背けた。

「知らん」

「何が」

「三人で行ったくせに」

ミサは黙った。

百合子が近づいた。

「くーちゃん、ごめんね」

久美子は百合子の方を見なかった。

和枝も言った。

「待たずに行ったのは、よくなかった」

久美子は、今度は和枝の方も見なかった。

そして、ミサをにらんだ。

「ミサちゃんが言うたんやろ」

ミサは何も言えなかった。

その通りだった。

久美子は泣きながら続けた。

「三人で行こうって、ミサちゃんが言うたんやろ」

「うん」

ミサは小さく答えた。

久美子の目に、また涙がたまった。

「なんで」

その声は、怒っているのに、ひどく寂しそうだった。

「私、遅かったけど、行くつもりやった」

「うん」

「走ったんやで」

「見た」

「見たのに、行ったん?」

ミサは、胸が痛くなった。

「うん」

久美子は、口をぎゅっと結んだ。

頭の先からつま先まで、真っ赤になるような拗ね方だった。
けれど、いつもの拗ね方とは違った。

これは、ただの喧嘩ではなかった。

傷ついている。

ミサは、ようやくそれがわかった。

「ごめん」

ミサが言った。

久美子は、すぐには答えなかった。

「ごめんで済むん?」

「済まへん」

「ほな、どうするん」

「……わからん」

「わからんのに謝ったん?」

ミサは、少しむっとした。

「謝らんよりましやろ」

「そういう言い方!」

久美子の声が大きくなった。

「ミサちゃん、いっつもそうやん。自分が悪いって思ってても、怒ったみたいに言う!」

「怒ってへん!」

「怒ってる!」

「怒ってへんて!」

「今も怒ってる!」

「くーちゃんが泣くからやん!」

「泣かされたんやん!」

「誰に!」

「ミサちゃんに!」

その言葉で、ミサは黙った。

百合子が泣きそうな顔で二人を見ていた。
和枝は、何か言おうとして、言えずにいた。

久美子は、涙をぬぐいながら言った。

「私、遅いのはわかってる」

ミサは顔を上げた。

「わかってるけど、早くできへん時ある」

久美子の声は震えていた。

「みんなに迷惑かけてるのも、わかってる。ミサちゃんが怒るのも、わかってる。でも、置いて行かれるのは嫌や」

その言葉は、ミサの胸にまっすぐ入った。

置いて行かれるのは嫌。

それは、ミサも知っている気持ちだった。

淡路島へ一人で行かされた日のこと。
知らない学校でよそ者だったこと。
遊びの輪に入れなかったこと。
自分だけが、そこにいないような気がしたこと。

ミサは、自分が一番嫌だったことを、久美子にしてしまったのだと気づいた。

「ごめん」

今度の声は、さっきより小さかった。

久美子は、まだ泣いていた。

ミサは続けた。

「ほんまに、ごめん」

久美子は、鼻をすすった。

「三人で行って、楽しかった?」

ミサは首を振った。

「楽しくなかった」

久美子の目が少し動いた。

百合子が言った。

「ほんまに、楽しくなかった」

和枝もうなずいた。

「文房具屋まで行ったけど、何も買わなかった」

久美子は、少し驚いた顔をした。

「何も?」

「何も」

和枝が答えた。

「かずちゃんも?」

「うん」

「ノート、見たかったんちゃうの?」

「見た。でも、買う気にならなかった」

久美子は、また涙をぬぐった。

ミサは、久美子を見た。

「くーちゃんがおらんかったら、つまらんかった」

久美子は、唇を震わせた。

「ほんま?」

「ほんま」

「ほんまって言う時、あやしい」

ミサは少し笑った。

「それ、今言う?」

久美子も、泣きながら少しだけ笑った。

けれど、すぐにまた拗ねた顔になった。

「でも、許したわけちゃう」

「うん」

「怒ってる」

「うん」

「しばらく怒ってる」

「うん」

「明日も怒ってるかもしれへん」

「うん」

ミサは素直にうなずいた。

久美子は少し困った顔をした。

「ミサちゃんが素直やと、調子狂う」

「怒った方がええ?」

「それは嫌」

百合子が笑った。
和枝も、やっと息を吐いた。

その時、久美子の鞄から何かが落ちた。

鉛筆だった。

ころころと転がって、ミサの足元で止まった。

ミサはそれを拾った。

「昨日、探してた鉛筆?」

久美子は、涙の残った顔で言った。

「うん」

「今日も落としてるやん」

「落としたかったわけちゃう」

「わかってる」

「怒らへんの?」

「今日は、怒らへん」

久美子は少しだけ目を丸くした。

「明日は?」

「明日は怒るかもしれん」

「なんで」

「くーちゃんやから」

久美子は、久しぶりに頬をふくらませた。

その顔を見て、ミサはほっとした。

いつもの久美子だった。

百合子が言った。

「じゃあ、四人で帰ろう」

和枝が時計を見た。

「もうかなり遅い」

「かずちゃん、そういうとこは変わらんな」

ミサが言うと、和枝は真面目に答えた。

「時間は変わらないから」

四人は歩き出した。

市電の停留所へ向かう道は、夕方の色になっていた。
商店の明かりが少しずつつき始めていた。
仕事帰りの人が歩き、自転車が通り過ぎ、遠くから市電の音が聞こえてきた。

久美子は、ミサの少し前を歩いていた。

怒っていると言ったくせに、歩く速さはいつもより少しだけ速かった。
置いて行かれないようにしているのかもしれなかった。

ミサは、その背中を見ながら言った。

「くーちゃん」

「何」

「明日から、遅れたら待つ」

久美子は振り返った。

「ほんま?」

「ほんま」

「怒りながら?」

「怒りながら」

久美子は、少し考えた。

「ほな、ええわ」

「ええんや」

「待ってくれるなら」

その言葉で、ミサの胸の奥が少しほどけた。

百合子が二人を見て、やさしく笑った。

和枝は、前を向いたまま言った。

「でも、待つ時間を短くする努力は必要」

「かずちゃん!」

久美子が叫んだ。

「それは正しい」

ミサも言った。

「ミサちゃんまで!」

百合子が笑った。

久美子はまた頬をふくらませた。

けれど、もう泣いていなかった。

市電が近づいてきた。

がたん、がたん。

四人は停留所へ急いだ。

今度は、誰も置いて行かなかった。

四人で走った。
走ると言っても、久美子の足に合わせたので、あまり速くはなかった。

それでも、四人で走った。

市電の扉が開く。
和枝が先に乗り、百合子が続く。
久美子が少しもたつき、ミサが後ろから言った。

「くーちゃん、足!」

「わかってる!」

「段差!」

「見えてる!」

「ほんま?」

「見えてるって!」

久美子は、ちゃんと乗った。

ミサも乗った。

扉が閉まる。

市電が動き出す。

四人は、息を切らしながら顔を見合わせた。

そして、笑った。

この日から、ミサは久美子を待つようになった。

もちろん、怒りながらだった。

久美子も、少しだけ急ぐようになった。

もちろん、少しだけだった。

百合子は相変わらず笑っていた。
和枝は相変わらず時間を見ていた。

四人の毎日は、少しだけ変わった。

けれど、四人でいることは変わらなかった。

それが、何より大事だった。


序章 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 最終章


第8章 京都へ行こう

京都へ行こうと言い出したのは、百合子だった。

昼休みの教室で、四人が弁当を広げていた時だった。
窓の外には、春から初夏へ移りかけた光があった。
運動場の土は少し白く乾いていて、遠くで誰かの笑い声が聞こえていた。

百合子は、弁当箱のふたをそっと閉じながら言った。

「今度、四人で京都へ行かへん?」

ミサは顔を上げた。

「京都?」

久美子は、おむすびを持ったまま止まった。

「京都って、あの京都?」

ミサはすぐに言った。

「ほかにどの京都があるん」

「いや、遠い京都」

「近い京都はないやろ」

「大阪から見たら、遠いやん」

「まあ、遠いけど」

久美子は、目を丸くしたままおむすびを見た。
まるで、そのおむすびに京都行きの答えが書いてあるかのようだった。

和枝はすでに考え始めていた。

「行くなら、日にちと時間を決めないと」

「ほら、かずちゃんが動き出した」

ミサが言うと、百合子が笑った。

「下鴨神社とか、清水寺とか。行ってみたいなと思って」

「清水寺!」

久美子の声が少し大きくなった。

近くの席の生徒がこちらを見た。
和枝がすぐに言った。

「声」

久美子は慌てて口を押さえた。

「ごめん」

ミサは笑った。

「くーちゃん、京都より先に廊下で怒られるで」

「ミサちゃんも、すぐ声大きくなるやん」

「私は必要な声」

「私も必要やった」

「清水寺で声張る必要ある?」

「行きたい気持ちが出たん」

百合子が楽しそうに二人を見ていた。

和枝は手帳を出した。

「行くなら、ちゃんと計画を立てる」

「旅行みたいやな」

ミサが言うと、和枝は真面目に答えた。

「旅行やと思う」

「京都やで」

「京都でも旅行」

久美子は少し不安そうに聞いた。

「お金、どれくらいいるんかな」

その言葉で、四人は少し黙った。

戦後の暮らしは、少しずつ物が出回り始めていたとはいえ、何でも自由にできる時代ではなかった。
高校生の四人にとって、京都へ行くことは、ただの遊びではなかった。

交通費。
少し食べるもの。
もし何か買うなら、その分もいる。

大きな額ではなくても、家に言わなければならない。
すぐに出せるお金ではなかった。

百合子は、少し遠慮がちに言った。

「無理せんでもええよ。行ける範囲で」

ミサは、すぐに言った。

「行こう」

三人がミサを見た。

ミサは、少し強い声で続けた。

「せっかく四人で行こうって言うたんやから、行こう」

久美子の顔が明るくなった。

「ほんま?」

「ほんま」

「私も行ってええ?」

ミサは眉を寄せた。

「何でくーちゃんだけ確認するん」

「この前、置いて行かれたし」

その言葉に、ミサは一瞬黙った。

あの日のことが、胸の奥に少し残っていた。
文房具屋へ三人で行きかけた日。
久美子を置いて行った日。
何も楽しくなかった日。

ミサは、久美子を見た。

「今度は、四人で行く」

久美子は、まだ不安そうだった。

「遅れても?」

「怒る」

「やっぱり」

「怒るけど、待つ」

久美子は少し笑った。

「ほな、行く」

和枝が手帳に書き込んだ。

「では、日曜日。朝は早めに集合」

久美子はすぐに言った。

「早めって、何時?」

和枝は答えた。

「八時半」

久美子は固まった。

「朝の?」

「ほかにない」

「八時半は、だいぶ早い」

ミサが言った。

「くーちゃんは、七時半と思って動きなさい」

「一時間も早く?」

「それで、ちょうど八時半になる」

「ひどい」

「事実」

「事実でも、ひどい」

百合子が笑いながら言った。

「じゃあ、私も少し早めに行くね。みんなで待ってたら大丈夫」

和枝は真面目にうなずいた。

「集合場所は市電の停留所。そこから乗り継ぎ。持ち物は、財布、ハンカチ、弁当、水筒。久美子ちゃんは、前の日に鞄へ入れておく」

久美子は、少し不満そうに言った。

「名前呼ばれた」

「大事やから」

「私だけ?」

「特に」

ミサが笑うと、久美子は頬をふくらませた。

「ミサちゃんも、忘れ物する時あるやん」

「私は少ない」

「少ないだけで、あるんや」

「あるけど」

「ほら」

二人がまた言い合い始めると、和枝が机を軽く叩いた。

「京都の話」

その一言で、二人は黙った。

百合子は、にこにこしながら言った。

「楽しみやね」

その言葉だけで、四人の胸の中に、小さな旅が始まった。

日曜日の朝、ミサはいつもより早く家を出た。

空は晴れていた。
まだ朝の光は柔らかく、町の屋根や電線にうすくかかっていた。
道には、仕事へ行く人、買い物に出る人、荷物を抱えた人がいた。

戦争の傷はまだ町のあちこちに残っていた。
新しく建て直された家の横に、まだ古い板でふさいだ場所がある。
焼け跡だったところに草が伸びている。

それでも町は動いていた。

人は歩く。
店は開く。
市電は来る。

ミサは停留所へ向かった。

一番に来ていたのは、和枝だった。

予想通りだった。

和枝はきちんとした服装で、手には小さな鞄を持っていた。
髪も乱れていない。
顔はいつも通り落ち着いていたが、目だけが少し明るかった。

「早いなあ」

ミサが言うと、和枝は時計を見た。

「集合時間の十五分前」

「旅行やから?」

「遅れたくないから」

「かずちゃんらしい」

少しして、百合子が来た。

百合子は淡い色の服を着ていた。
派手ではないが、よく似合っていた。
手にはきれいに包まれた小さな弁当を持っていた。

「おはよう」

「おはよう」

百合子は二人を見て笑った。

「まだ、くーちゃん来てない?」

ミサは腕を組んだ。

「問題はそこや」

和枝が時計を見た。

「あと五分」

百合子は笑った。

「今日は来るよ」

「来るとは思う」

ミサは言った。

「時間通りかどうかや」

三人は停留所で待った。

市電のレールが朝の光を受けて光っている。
遠くで、車輪の音がした。

がたん、がたん。

けれど、それは反対方向の市電だった。

八時半になった。

久美子は来なかった。

ミサは、ため息をついた。

「くーちゃん……」

和枝は時計を見た。

「一分遅れ」

「一分なら、まだええ」

百合子が言った。

ミサは言った。

「くーちゃんの一分は、ふくらむ」

その時、角の向こうから久美子が現れた。

走っていた。

いや、本人は走っているつもりだった。
鞄を胸に抱え、弁当包みを片手に持ち、髪を揺らしながら、必死でこちらへ向かってくる。

「待ってえ!」

声が大きかった。

ミサは思わず笑った。

「待ってるわ!」

久美子は停留所まで来ると、息を切らした。

「間に合った?」

和枝が時計を見た。

「三分遅れ」

久美子は肩を落とした。

「三分だけ」

ミサは言った。

「でも来た」

久美子は顔を上げた。

ミサは続けた。

「今日は、来たからええ」

久美子は少し嬉しそうに笑った。

「怒らへんの?」

「今は怒らへん」

「今は?」

「あとで何かしたら怒る」

「やっぱり」

百合子が笑った。

その時、市電が近づいてきた。

四人は並んで乗った。

車内は、日曜日の朝らしく、平日より少しゆったりしていた。
窓から入る風が、四人の髪を少し揺らした。

ミサは窓の外を見た。

町が流れていく。

工場の煙突。
商店街。
自転車。
橋。
朝の光を受ける川。
焼け跡に生えた草。
新しく建てられた家。

久美子は窓の外に顔を近づけた。

「京都、まだ?」

ミサはすぐに言った。

「まだ市電乗ったばっかりや」

「楽しみやから」

「楽しみでも、まだ」

和枝が言った。

「乗り換えもある」

久美子は不安そうに和枝を見た。

「乗り換え、間違えへん?」

「私がいる」

和枝の一言は、強かった。

百合子が笑った。

「頼もしいね」

ミサも言った。

「かずちゃんがおったら、道には迷わへんな」

久美子が小さく言った。

「私だけやったら、帰られへんかも」

「くーちゃん一人では京都に行かせられへん」

ミサが言うと、久美子は頬をふくらませた。

「でも、今日は四人やもん」

その言葉に、ミサは少し黙った。

そうだった。
今日は四人だった。

誰も置いて行かない。
誰かが遅くても、誰かが待つ。
誰かが迷っても、誰かが道を見る。

市電は走った。
乗り換えをして、また電車に乗った。
車内には、家族連れや学生らしい人たちもいた。

窓の外の景色は少しずつ変わっていった。

大阪の町のざわめきが遠くなり、家並みが変わり、空が少し広く見えた。

久美子は何度も聞いた。

「もう京都?」

「まだ」

「今どこ?」

「途中」

「あとどれくらい?」

「かずちゃんに聞いて」

和枝はそのたびに、できるだけ正確に答えた。
百合子はそのやり取りを、楽しそうに聞いていた。

京都に着いた時、久美子は小さく声を上げた。

「着いた!」

「見たらわかる」

ミサが言うと、久美子は笑った。

「言いたかったん」

駅の外へ出ると、空気が少し違って感じられた。

大阪の空気が、鉄と煙と人の声を含んでいるとしたら、京都の空気は少し静かだった。
もちろん人は多い。
道もにぎやかだった。
けれど、建物の影や、道の曲がり方や、遠くに見える山の色が、どこか落ち着いていた。

「まず、下鴨神社」

和枝が言った。

「はい、先生」

ミサが言うと、和枝は少しだけにらんだ。

「先生ではありません」

「でも、先生みたい」

久美子が言うと、和枝はさらにまじめな顔になった。

「迷わないために必要です」

百合子が笑った。

その時だった。

駅前の少し離れたところで、数人の外国人が困ったように立っていた。

男の人が二人。
女の人が一人。
年配の人もいた。
手には地図を持っている。

通りかかる人に何かを聞いているようだったが、うまく通じていないらしい。

久美子が小さく言った。

「外国の人や」

ミサも見た。

外国人を見ること自体が、まだめずらしい時代だった。
戦争が終わってから、町には少しずつ外国のものや外国の言葉が入ってきていた。
けれど、女子校生の四人にとって、直接話しかけられるような相手ではなかった。

百合子は少し心配そうに見ていた。

「困ってはるみたい」

ミサは言った。

「でも、英語やろ。私、英語嫌いやで」

久美子はすぐに言った。

「ミサちゃん、英語の教科書見るだけで顔変わるもんな」

「今それ言う?」

和枝は、外国人たちが持っている地図をじっと見ていた。

そして、少しだけ前へ出た。

「地図なら、わかるかもしれへん」

ミサは驚いた。

「かずちゃん?」

和枝は少し緊張した顔で、外国人たちの方へ歩いていった。

百合子もすぐに後を追った。
ミサと久美子も、あわててついていった。

外国人の一人が、和枝たちを見ると、少し安心したような顔をした。

「Kiyomizu? Shimogamo? Time?」

聞き取れたのは、それくらいだった。

久美子は目を丸くした。

「何て?」

ミサは小声で言った。

「清水と下鴨って言うてる」

「ミサちゃん、英語わかるん?」

「地名だけや」

和枝は、外国人が広げている地図を見た。

地図には、京都の名所が赤い鉛筆で囲まれていた。
下鴨神社。
清水寺。
祇園。
駅へ戻る道。

外国人たちは、限られた時間でいくつかの場所を回りたいらしかった。
けれど、移動の順番がわからず困っているようだった。

和枝は、自分の手帳を開いた。

そこには、四人の今日の予定がびっしり書かれていた。

集合時間。
乗り換え。
下鴨神社に着く予定時刻。
昼食の時間。
清水寺へ向かう時間。
帰りの電車。

ミサは、あらためてその細かさに驚いた。

「かずちゃん、そこまで書いてたん?」

「当然」

和枝は短く言った。

それから、外国人たちの地図を指さし、自分の手帳と見比べながら、ゆっくり説明し始めた。

英語はほとんど使えなかった。

けれど、和枝には時間があった。
地図があった。
指で示す順番があった。
そして、何より、落ち着きがあった。

「First……Shimogamo」

和枝は、少し考えながら言った。

それから、時計を指さした。

「Then……lunch. After……Kiyomizu」

百合子がそっと言葉を足した。

「This way」

ミサは心の中で、ゆりちゃんすごい、と思った。
久美子は、ただ目を丸くしていた。

外国人たちは、和枝の手帳をのぞき込み、何度もうなずいた。

和枝は、乗り換えの場所を地図に小さく印をつけた。
それから、帰りの時間を指で示した。

最後に、はっきり言った。

「Do not miss this train」

その言葉だけは、妙に力があった。

外国人の女の人が、ぱっと笑った。

「Very good. Thank you」

男の人の一人が、和枝に向かって深く頭を下げた。

和枝は少し驚き、あわてて頭を下げ返した。

久美子が小声で言った。

「かずちゃん、外国の人に勝った」

ミサはすぐに言った。

「勝ち負けちゃう」

「でも、すごかった」

百合子も言った。

「ほんまにすごかった」

和枝は、少し顔を赤くした。

「地図を見ただけ」

「地図を見ただけで、あんなにできる人おらへん」

ミサが言うと、和枝はさらに赤くなった。

外国人たちは、和枝が書いた印を見ながら、もう一度頭を下げた。
その中の一人が、手帳を取り出して、和枝の名前を聞こうとした。

和枝は戸惑った。

「名前?」

百合子が小さく助けた。

「Kazue」

外国人は、それを書き留めた。

さらに、学校名も聞かれた。

ミサは少し不安になった。

「学校名まで言うて大丈夫なん?」

百合子も少し迷った。

けれど、外国人たちは礼儀正しく、何度も感謝を伝えていた。

和枝は、学校名を小さな声で言った。

その時は、ただそれだけのことだと思っていた。

四人は外国人たちと別れ、下鴨神社へ向かった。

久美子は歩きながら、何度も言った。

「かずちゃん、すごかったなあ」

「もうええ」

和枝は照れていた。

「でも、ほんまにすごかった」

ミサも言った。

「私やったら、清水と下鴨だけ聞き取って、あとは逃げてる」

「ミサちゃん、逃げるん?」

久美子が聞く。

「英語からは逃げる」

「強いのに?」

「英語には弱い」

百合子が笑った。

和枝は、少しだけ考え込んでいた。

「外国の人でも、困ることは同じなんやね」

その言葉に、ミサは和枝を見た。

「道に迷うとか?」

「うん。時間がわからないとか、順番がわからないとか」

和枝は手帳を閉じた。

「そういうのは、言葉が少し違っても、助けられるんやと思った」

その時の和枝の顔は、いつもの几帳面な顔とは少し違っていた。

何かを見つけたような顔だった。

下鴨神社に着くと、空気がさらに変わった。

木々が深く、道にはやわらかい影が落ちていた。
外の町の音が少し遠くなる。
鳥の声が聞こえた。
足元の土の感触も、さっきまでの道とは違っていた。

四人は、しばらく黙って歩いた。

久美子でさえ、少し静かだった。

「きれいやね」

百合子が言った。

その声は、木々の間にそっと置かれるようだった。

ミサはうなずいた。

戦争の時代には、空を見ることが怖かった。
淡路島の空は広すぎて、どこから飛行機が来るかわからなかった。
此花の空には、赤い光が広がった。

けれど、京都のこの空は違った。

木々の隙間から見える空は、ただ静かだった。
何かが落ちてくる空ではなく、ただ見上げてもいい空だった。

ミサは、そのことに少し驚いた。

空を見上げても、怖くない。

そんなことが、あるのだと思った。

久美子が、そっと言った。

「ミサちゃん、何見てるん?」

「空」

「何かある?」

「何もない」

「何もないのに見てるん?」

「何もないから、見てるんやと思う」

久美子は首をかしげた。

「むずかしい」

ミサは笑った。

「くーちゃんには、まだ早い」

「なんで!」

その声が少し大きくなり、和枝がすぐに言った。

「神社では静かに」

四人はまた笑いをこらえた。

下鴨神社を出たあと、四人は持ってきた弁当を食べる場所を探した。

お金はあまり使えない。
店に入って好きなものを頼むような余裕はなかった。
それでも、持ってきた弁当を四人で広げるだけで十分だった。

木陰に腰を下ろし、包みを開いた。

和枝の弁当は相変わらず整っていた。
百合子の弁当は、やさしい色合いだった。
久美子の弁当は、少し片寄っていた。

ミサはすぐに言った。

「くーちゃん、おかず寄ってる」

久美子は弁当を見た。

「ほんまや」

「歩きながら鞄振るからや」

「楽しかったから」

「おかずは楽しくないと思う」

「おかずの気持ちはわからん」

百合子が笑った。

和枝も箸を止めて言った。

「おかずの気持ちは、たぶん誰にもわからない」

「かずちゃん、真面目に言わんといて」

ミサが笑った。

弁当を食べながら、四人は学校の話をした。
先生の話。
服装検査の話。
久美子がこの前、掃除の雑巾をしぼりそこねた話。
ミサが爪で注意された話。
百合子の家で花瓶を割った話。

花瓶の話になると、久美子はまだ少し赤くなった。

「もう、その話はええやん」

「忘れられへん」

ミサが言うと、百合子が笑った。

「うちの母、あれから時々言うよ。百合子、ええ友だちができたねって」

久美子は、ますます赤くなった。

「花瓶割ったのに?」

「うん」

百合子はやさしく笑った。

「けががなくてよかったって」

久美子は、小さな声で言った。

「ゆりちゃんのお母さん、やさしい」

「うん」

百合子は少しだけ遠くを見た。

「私、みんなを家に呼んでよかった」

その言葉に、ミサは胸があたたかくなった。

和枝も静かにうなずいた。

「次に行く時は、花瓶から離れて座る」

「かずちゃん!」

久美子が叫んだ。

四人は笑った。

午後は、清水寺へ向かった。

坂道だった。

久美子は途中で何度も立ち止まった。

「ちょっと待って」

「また?」

ミサが言う。

「坂が長い」

「清水寺やから」

「清水寺って、こんなに坂なん?」

「知らんかったん?」

「名前は知ってた」

「名前だけで来たんか」

「みんなで来るから、大丈夫かなって」

ミサは、言い返そうとしてやめた。

みんなで来るから、大丈夫。

その言葉が、少し嬉しかった。

和枝が言った。

「休むなら、端に寄って」

「はい」

久美子は素直に端へ寄った。

百合子が水筒を差し出した。

「飲む?」

「ありがとう」

久美子は水を飲んだ。

ミサは言った。

「ゆっくりでええよ」

久美子が驚いた顔をした。

「ミサちゃんが?」

「何」

「ゆっくりでええって言うた」

「言うたらあかんの」

「いや、うれしい」

久美子はそう言って、少し笑った。

ミサは照れくさくなり、顔をそむけた。

「ただ、あんまり遅いと怒る」

「やっぱり」

百合子が笑った。

坂を上がり、清水寺に着いた時、四人は少し息を切らしていた。

舞台から見える景色に、久美子はまた声を上げそうになった。
けれど、和枝に見られて、口を押さえた。

ミサも、景色を見た。

遠くまで町が広がっている。
屋根が重なり、道が伸び、空が大きく開いている。
木々の緑が、風に揺れていた。

そこには、焼けた町の赤はなかった。
水の中に米粒が浮いているようなひもじさも、少し遠かった。
ただ、四人でここまで来たという事実だけがあった。

ミサは思った。

戦争が終わるというのは、こういう日のことなのかもしれない。

大きな声で「終わった」と言えなかった日。
ラジオの前で黙っていた日。
うれしいのに、うれしいと言えなかった日。

そのあとに、こうして友だちと坂を上がり、息を切らし、笑いながら景色を見る日が来る。

それが、戦争が終わったということなのかもしれない。

もちろん、全部が戻ったわけではない。
食べ物も、町も、家も、人の心も、簡単には戻らない。

けれど、今日だけは、そう思えた。

久美子が横から言った。

「ミサちゃん、また難しい顔してる」

「してへん」

「してる」

「景色見てただけ」

「景色見て、怒ってる顔になるん?」

「怒ってへん」

「怒ってる顔やけど」

ミサは思わず笑った。

「くーちゃん、ほんまにそれ好きやな」

「ほんまのことやもん」

百合子が、二人の横で笑っていた。
和枝は、少し離れて景色を見ていた。

「かずちゃん」

ミサが声をかけると、和枝は振り向いた。

「何」

「楽しい?」

和枝は少し考えた。

「うん」

短い答えだった。
けれど、その「うん」は、和枝にしてはとても素直だった。

百合子が言った。

「来てよかったね」

久美子も言った。

「うん。四人で来てよかった」

その言葉に、誰もすぐには返さなかった。

返さなくても、みんな同じことを思っていた。

帰り道、久美子は坂で少し滑りかけた。

ミサは反射的に手を出した。

「危ない!」

久美子は踏みとどまった。

そして、すぐに言った。

「今のは、自分で止まった」

ミサは笑った。

「止まったな」

「ちゃんと言って」

「くーちゃんは、自分で止まりました」

久美子は満足そうにうなずいた。

和枝が言った。

「でも、次から足元を見ること」

「はい」

百合子が笑った。

京都の夕方は、少し金色だった。

四人は、来た道を戻った。
疲れていた。
足も少し痛かった。
けれど、誰も早く帰りたいとは言わなかった。

駅へ向かう途中、小さな店の前で久美子が立ち止まった。

「これ、かわいい」

そこには、小さな紙のしおりが並んでいた。
花の模様や、寺の絵が描かれている。

値段は高くなかった。
けれど、四人にとっては、少し考える値段だった。

百合子が一枚手に取った。

「記念に、一枚ずつ買う?」

和枝は財布を確認した。

「買える」

ミサも、少し迷ってからうなずいた。

久美子は、しおりを選ぶのに時間がかかった。

「くーちゃん、早く」

ミサが言うと、久美子は言い返した。

「記念やから、ちゃんと選ぶ」

「いつもちゃんと選んで遅い」

「今日はええやん」

「まあ、今日はええか」

久美子は驚いた顔をした。

「ミサちゃん、今日やさしい」

「京都やから」

「京都すごい」

百合子が笑った。
和枝も、少し笑った。

四人は、それぞれ一枚ずつしおりを買った。

ミサは、赤い花のしおりを選んだ。
百合子は、薄い紫の花。
和枝は、きちんとした線の模様。
久美子は、最後まで迷って、少し曲がった小鳥の絵を選んだ。

「くーちゃんらしい」

ミサが言うと、久美子は頬をふくらませた。

「かわいいやん」

「かわいい」

「ほな、ええやん」

「うん。ええと思う」

ミサが素直に言ったので、久美子は少し照れた。

帰りの電車では、四人とも少し静かだった。

疲れていた。
けれど、それは嫌な疲れではなかった。

窓の外が暗くなっていく。
町の明かりがひとつずつ見える。
車内の揺れに合わせて、久美子が少し眠そうにしている。

ミサは言った。

「くーちゃん、寝たら乗り過ごすで」

「寝てへん」

「目、半分」

「半分は起きてる」

「半分寝てるやん」

久美子は、眠そうなまま頬をふくらませた。

百合子は、しおりを大事そうに鞄にしまっていた。
和枝は、今日使ったお金を小さな紙に書いていた。

「かずちゃん、帰りまで計算?」

ミサが聞くと、和枝は答えた。

「忘れないうちに」

「さすがやな」

和枝は少しだけ笑った。

その時、和枝は朝の外国人たちのことを思い出していた。

地図を見て、時間を考え、順番を組み立てる。
それだけで、人の役に立てることがある。

和枝にとって、それは小さな驚きだった。

市電に乗り換え、大阪の町へ戻ってきた。

空気が変わった。
人の声が増えた。
工場の匂いが少し混じった。

ミサは、京都の静けさと、大阪のざわめきの両方を胸の中に持っていた。

停留所で降りる時、久美子がまた少しもたついた。

ミサは言った。

「くーちゃん、足」

「わかってる」

「鞄」

「持ってる」

「しおり落としてへん?」

久美子は慌てて鞄を押さえた。

「落としてへん!」

「なら、よし」

四人は停留所に降りた。

あたりはもう夕方を過ぎ、夜に近かった。
商店の明かりが道にこぼれている。
遠くで誰かが笑っている。

別れる場所で、四人は少し立ち止まった。

「今日は、楽しかったね」

百合子が言った。

和枝がうなずいた。

「予定通りではなかったけど、よかった」

「予定通りやったところある?」

ミサが聞くと、和枝は少し考えた。

「集合以外は、だいたい」

「集合が一番大事やん」

久美子が言った。

「三分だけやん」

「その三分が、くーちゃん」

「もう」

久美子は拗ねた。
けれど、その顔はうれしそうだった。

ミサは、鞄の中のしおりをそっと確かめた。

赤い花のしおり。

それはただの紙だった。
高いものでもない。
立派なものでもない。

けれど、その一枚を見るたびに、今日のことを思い出す気がした。

下鴨神社の静かな空。
清水寺の坂。
久美子の遅い足。
百合子のやさしい声。
和枝の正確な時間。
外国人たちの地図。
そして、四人で笑いながら歩いた京都の道。

戦争の時代には、想像もできなかった一日だった。

ミサは思った。

楽しいというのは、こういうことなのかもしれない。

大げさなことではない。
特別なごちそうでもない。
立派な服でもない。

ただ、友だちと同じ場所へ行き、同じ景色を見て、同じことで笑うこと。

久美子が言った。

「また行きたいな」

百合子がうなずいた。

「行こうね」

和枝が言った。

「次は、もっと早く計画する」

ミサは久美子を見た。

「次は、集合の一時間前に出ること」

久美子はすぐに言い返した。

「またそれ!」

四人は笑った。

市電の音が、遠くでまた聞こえた。

がたん、がたん。

その音の中に、京都の一日が静かに混じっていった。

その翌朝のことだった。

ミサが学校へ行くと、教室の空気がいつもと違っていた。

誰かが新聞を広げている。
何人かの生徒が、その周りに集まっている。
こちらを見て、ひそひそと話している。

ミサは嫌な予感がした。

「何?」

久美子が先に聞いた。

新聞を持っていた生徒が、四人の方を見た。

「これ、あんたらと違う?」

ミサは新聞をのぞき込んだ。

そこには、小さな記事が載っていた。

見出しには、こうあった。

日本の女学生、京都で外国人視察団を案内

ミサの背中に、冷たいものが走った。

「え」

久美子が固まった。

「新聞?」

百合子も驚いていた。
和枝だけが、顔から血の気が引いていくようだった。

記事には、前日の京都での出来事が書かれていた。

道に困っていた外国人たちに、日本の女学生が地図と時間を使って案内をしたこと。
その正確さと丁寧さに、外国人たちが深く感心したこと。
日本の若い女性の礼儀正しさと知性を称えたこと。

そして、その外国人たちは、ただの旅行者ではなかった。

国連関係の視察団だった。

仕事で日本を訪れており、その日は京都での休みの日だった。
彼らは新聞社に、京都で出会った女学生たちのことを話したのだという。

ミサは、和枝を見た。

和枝は真っ青だった。

「学校名も載ってる……」

久美子が震える声で言った。

「怒られる?」

百合子も不安そうに言った。

「勝手に外国の方と話したことになるのかな」

ミサは強がって言った。

「困ってはったんやから、ええやん」

けれど、自分の声も少し揺れていた。

学校は厳しい。
服装にも、時間にも、言葉づかいにも厳しい。
校外での行動にも、もちろん厳しい。

新聞に名前が出るなど、考えたこともなかった。

その時、教室の戸が開いた。

先生が入ってきた。

教室が一気に静かになった。

先生は、四人を見た。

「ミサさん、久美子さん、百合子さん、和枝さん」

四人は立ち上がった。

「はい」

先生は言った。

「職員室へ来なさい」

久美子は、今にも泣きそうな顔になった。

「怒られる……」

ミサは小声で言った。

「まだ決まってへん」

「でも、職員室やで」

「職員室はだいたい怒られるところやけど」

「余計怖い!」

和枝は何も言わなかった。

ただ、手帳をぎゅっと握っていた。

四人は職員室へ向かった。

廊下を歩く足音が、やけに大きく聞こえた。
ミサは、昨日の清水寺の坂よりも、この廊下の方が長く感じた。

職員室に入ると、何人もの先生がこちらを見た。

野崎先生もいた。

ミサは、さらに緊張した。

野崎先生に見られると、悪いことをしていなくても背筋が伸びる。

校長先生が座っていた。

机の上には、新聞が置かれている。

四人は並んで立った。

校長先生は新聞を手に取り、静かに言った。

「昨日、京都で外国の方々を助けたそうですね」

和枝が小さな声で言った。

「はい」

「その方々は、国連関係の視察団の方だったそうです」

四人は黙っていた。

校長先生は続けた。

「その方々から、新聞社へ連絡がありました。日本の女学生は礼儀正しく、知性があり、親切であったと」

久美子が、そっとミサの袖をつかんだ。

ミサも、息を詰めていた。

校長先生は、少し間を置いた。

「学校として、大変誇らしいことです」

四人は顔を上げた。

怒られるのではなかった。

校長先生は、和枝を見た。

「特に和枝さん。あなたの冷静な判断と、正確な予定の立て方が、その方々を助けたと聞いています」

和枝は、目を見開いた。

「私が……ですか」

「はい」

校長先生はうなずいた。

「困っている人を助けることは、勉強の外にあることではありません。学んだこと、身につけたことを、人のために使う。それは、とても大切なことです」

野崎先生が、静かに言った。

「時間を守ることも、言葉を大切にすることも、そういう時に役立つのです」

ミサは思わず野崎先生を見た。

野崎先生は、いつものように厳しい顔だった。
けれど、その目は少しだけやわらかかった。

校長先生は言った。

「朝礼で、四人を紹介します」

久美子が小さく声を出した。

「朝礼……」

ミサも固まった。

和枝は、さらに青くなった。

「表彰、ということでよろしいですね」

校長先生が言った。

表彰。

四人は、怒られるどころか、表彰されることになったのである。

朝礼の時間、四人は全校生徒の前に立った。

久美子は、ずっと足元を見ていた。
百合子は静かに立っていた。
ミサは、恥ずかしさをごまかすように前を向いた。
和枝は、背筋を伸ばしていたが、耳まで赤くなっていた。

校長先生が、新聞の記事を紹介した。

「本校の生徒が、京都において外国の視察団の方々を助け、その礼儀と判断力を高く評価されました」

生徒たちの間に、小さなどよめきが起きた。

和枝の名前が呼ばれた。

「特に、和枝さんの正確な計画と冷静な対応が、相手の方々を安心させたとのことです」

拍手が起こった。

和枝は、驚いたように立っていた。

ミサは、その横顔を見た。

いつも時間を見ている和枝。
いつも忘れ物を確認する和枝。
予定が狂うと、少し困った顔をする和枝。

その几帳面さが、初めてみんなの前で褒められていた。

ミサは、なぜか自分のことのように嬉しかった。

久美子は泣きそうになっていた。

「くーちゃん、何で泣くん」

ミサが小声で言うと、久美子は小さく答えた。

「かずちゃん、すごいから」

百合子も、目を細めて和枝を見ていた。

朝礼が終わると、四人のところへ何人もの生徒がやってきた。

「新聞見たよ」

「すごいなあ」

「外国の人と話したん?」

久美子は慌てて言った。

「私はほとんど何もしてへん」

ミサも言った。

「私も英語は無理」

百合子は笑った。

「かずちゃんがすごかったんです」

和枝は困った顔をした。

「地図を見ただけ」

ミサは言った。

「その“だけ”ができへんのよ」

その日から、和枝は少し変わった。

大きく変わったわけではない。
急に目立つようになったわけでもない。
相変わらず、時間を見て、持ち物を確認して、久美子に注意していた。

けれど、時々、外国の人たちから学校に手紙が届くようになった。

最初は、お礼の手紙だった。
英語で書かれていて、四人には全部は読めなかった。

英語の先生が訳してくれた。

そこには、京都で親切にしてくれた女学生たちへの感謝と、和枝の正確な案内に感心したことが書かれていた。

和枝は、手紙を何度も読んだ。

英語は難しかった。
けれど、そこに自分が知らなかった世界への入口があるような気がした。

「かずちゃん、海外に行くん?」

久美子が聞いたことがある。

和枝は、少し考えて言った。

「まだ、わからへん」

ミサは言った。

「でも、向いてると思う」

「私が?」

「うん。かずちゃん、外国の人でも迷子にせえへんやろ」

百合子が笑った。

「それ、すごく大事やね」

和枝は、少し照れたように下を向いた。

「そういう仕事があるなら、してみたいかもしれへん」

その声は小さかった。

けれど、ミサには聞こえた。

それは、和枝が初めて口にした、未来の形だった。

やがて卒業後、和枝は大手企業に入ることになる。

最初は事務の仕事だった。
けれど、正確で、冷静で、相手の必要としていることを先に考えられる和枝は、少しずつ周りに認められていった。

そして、まだ女性が海外部門を任されることなど珍しかった時代に、和枝は女性として初めて、海外に関わる仕事を任されることになる。

それは突然の幸運ではなかった。

京都の駅前で、困っている外国人たちの地図をのぞき込んだ日。
自分の手帳を開き、時間と道順を組み立てた日。
「Do not miss this train」と、震えながらも言った日。

その小さな一日が、和枝の未来の扉を少しだけ開けたのだった。

ミサがそのことを知るのは、もっと後のことになる。

けれど、女子校時代の思い出の中で、その京都の日は、いつまでも明るい場所に残った。

下鴨神社の静かな空。
清水寺の坂。
久美子の遅い足。
百合子のやさしい声。
和枝の正確な時間。
外国人たちの笑顔。
そして、四人で笑いながら歩いた京都の道。

戦争の時代には、想像もできなかった一日だった。

楽しいというのは、こういうことなのかもしれない。

大げさなことではない。
特別なごちそうでもない。
立派な服でもない。

ただ、友だちと同じ場所へ行き、同じ景色を見て、同じことで笑うこと。

そして時には、本人も気づいていない才能が、誰かを助けること。

その日、和枝は少しだけ未来を見つけた。

ミサたちは、それに気づかないまま、ただ笑っていた。

市電の音が、遠くでまた聞こえた。

がたん、がたん。

その音の中に、京都の一日と、和枝の未来が、静かに混じっていった。


序章 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 最終章


第9章 そろばんと就職

京都へ行った日から、しばらくのあいだ、ミサは鞄の中にしおりを入れていた。

赤い花のしおりだった。

教科書の間にはさむと、少しだけ気分が変わった。
ただの授業の本でも、そこに京都の一日がはさまっているような気がした。

下鴨神社の木の影。
清水寺の坂。
久美子が何度も立ち止まった道。
百合子が笑っていた顔。
和枝が予定を確かめていた手帳。

それらが、しおりを見るたびに少し戻ってきた。

けれど、楽しい時間は、いつまでもそのままではいられなかった。

三年生になると、学校の空気が少し変わった。

廊下の声は相変わらずあった。
先生の注意も、服装検査も、遅刻への厳しさも変わらなかった。
久美子は相変わらず少し遅かったし、ミサは相変わらずそれを怒った。

けれど、教室の中には、以前とは違う言葉が増えていった。

進路。
就職。
卒業後。
家庭。
会社。

その言葉が出るたびに、教室の空気が少し硬くなった。

先生は黒板の前に立ち、いつものように姿勢を正して言った。

「皆さんは、卒業後の進路を真剣に考える時期です」

教室は静かだった。

「就職を希望する人は、早めに準備を始めなさい。家の方ともよく相談すること。社会に出るというのは、学校生活とは違います」

ミサは、机の上で手を組んだ。

社会に出る。

その言葉は、どこか遠いもののようで、でもすぐそこにあるものだった。

高校へ入った時、三年という時間は長く思えた。
入学式の日の校門は大きく、教室は知らない顔ばかりで、久美子の鞄がなかなか閉まらないことに腹を立てていた。

それが、もう卒業後の話をする時期になっている。

ミサは、少し信じられなかった。

授業が終わったあと、四人は教室の後ろに集まった。

百合子が静かに言った。

「進路の話、始まったね」

和枝はうなずいた。

「早めに決めないといけない」

「かずちゃんは、もう決めてるん?」

ミサが聞くと、和枝は少し姿勢を正した。

「就職するつもり。できれば、大きい会社」

その言い方は、迷いが少なかった。

和枝らしいと思った。

和枝は、京都へ行った日から少し変わっていた。
大きく目立つようになったわけではない。
相変わらず、時間を見て、持ち物を確認して、予定が狂うと少し困った顔をした。

けれど、あの日、京都の駅前で外国人たちの地図を見た時のことが、和枝の中に残っているのだとミサは感じていた。

時間を守ること。
順番を考えること。
先を読んで動くこと。

それが、ただ几帳面なだけではなく、人の役に立つことがある。

和枝は、そのことを知ったのだ。

「大きい会社かあ」

久美子が少し遠いものを見るように言った。

「かずちゃん、似合うね」

百合子が言った。

「似合うかどうかはわからないけど、ちゃんと働きたい」

和枝はそう言った。

久美子は、少し不安そうな顔をしていた。

「私、どうしよう」

ミサはすぐに言った。

「まず、提出物をなくさへんことやな」

久美子は頬をふくらませた。

「いきなりそれ?」

「大事やろ。就職の紙、なくしたらどうするん」

「なくさへん」

「ほんま?」

「たぶん」

「たぶんがあかん」

百合子が笑った。

和枝は真面目な顔で言った。

「久美子ちゃんは、紙をもらったらすぐ鞄の決まったところに入れること」

「かずちゃんまで」

「大事」

久美子は、ため息をついた。

「みんな、私のこと心配しすぎ」

ミサは言った。

「心配させるからや」

「ミサちゃんも、心配してくれてるん?」

その言葉に、ミサは少し詰まった。

「そら、まあ」

「まあ?」

「心配やろ」

「怒ってるんちゃうん?」

「怒るのと心配は、近い時がある」

久美子は首をかしげた。

「むずかしい」

「くーちゃんには、まだ早い」

「またそれ!」

四人は笑った。

けれど、その笑いの奥に、少しだけ寂しさがあった。

卒業後の話をするということは、四人が同じ教室にいられる時間が残り少ないということだった。

ミサは商業科で学んでいた。

英語は大嫌いだった。

英語の時間になると、黒板の文字がどこか遠い国の模様に見えた。
先生は発音を繰り返し、生徒たちにも声を出させた。

百合子は比較的きれいに読む。
和枝は真面目に覚える。
久美子は途中でどこを読んでいるのかわからなくなる。

ミサは、英語の時間が近づくだけで気が重かった。

「なんでこんなん覚えなあかんの」

ある日、授業のあとにミサが言うと、和枝がすぐに答えた。

「必要になるかもしれないから」

「ならへん気がする」

「わからない」

「かずちゃんは、何でも必要って言う」

「必要なものは必要」

百合子が笑った。

「ミサちゃんは、英語嫌いやもんね」

「大っ嫌い」

ミサははっきり言った。

久美子が少し安心したように言った。

「私も苦手」

「くーちゃんは、英語だけちゃうやろ」

「ひどい!」

「でも、そろばんは?」

久美子は、そう聞いた。

ミサは少し胸を張った。

「そろばんは、まだええ」

商業科に入ってから、ミサはそろばんを習うようになった。

最初は、指が思うように動かなかった。
珠をはじく音が教室に響く。

ぱち、ぱち、ぱち。

先生の声に合わせて、みんなが一斉に計算する。

数字は、英語よりもずっとわかりやすかった。

答えがある。
合っているか、間違っているかがはっきりする。
遠回しな言い方も、発音の違いもない。

珠を動かせば、数が出る。

ミサは、その感じが嫌いではなかった。

もちろん、得意だと胸を張れるほどではなかった。
けれど、英語よりはずっとましだった。

その日のそろばんの授業で、久美子はいつものようにゆっくりしていた。

そろばんを机の上に置くのも、筆箱を開けるのも、みんなより少し遅い。
先生が問題を読み上げる前になって、まだそろばんの位置を直している。

ミサは小声で言った。

「くーちゃん、遅い」

久美子は小さく答えた。

「置く場所が大事やねん」

「そろばんの場所くらい、どこでもええやん」

「よくない」

「くーちゃんが言うと、説得力ない」

久美子は少しだけ頬をふくらませた。

その時、先生が問題を読み上げた。

教室中に、そろばんの音が響いた。

ぱち、ぱち、ぱち。

ミサも珠をはじいた。
和枝も真面目に計算している。
百合子も慎重に指を動かしている。

その横で、久美子の指だけが違っていた。

速かった。

ミサは、一瞬、自分の目を疑った。

久美子の指は、いつもの久美子ではなかった。
鞄を閉めるのに時間がかかる久美子でも、廊下で道を間違えそうになる久美子でも、坂道ですぐ立ち止まる久美子でもなかった。

そろばんの珠の上を、迷いなく指が動いている。

ぱちぱちぱち。

音が軽い。
速い。
でも乱れていない。

ミサは思わず手を止めた。

先生が言った。

「答え」

久美子は、誰よりも早く小さく答えを書いていた。

ミサは久美子を見た。

「くーちゃん?」

「何?」

久美子は、いつもの顔で振り向いた。

「今の、できたん?」

「うん」

「全部?」

「うん」

「なんで?」

久美子は不思議そうに首をかしげた。

「なんでって、そろばんやもん」

ミサは言葉を失った。

そろばんやもん。

久美子は、あまりにも普通に言った。

授業が終わると、ミサはすぐに久美子のところへ行った。

「くーちゃん」

「何?」

「そろばん、できるん?」

久美子は、少し困った顔をした。

「できるってほどでも……」

「できてるやん」

「まあ、ちょっとは」

「ちょっと?」

和枝が横から言った。

「ちょっとではないと思う」

百合子も、目を丸くしていた。

「くーちゃん、すごかったよ」

久美子は、少し照れたように笑った。

「うち、そろばん教室やねん」

三人は、同時に黙った。

ミサが聞いた。

「そろばん教室?」

「うん。家でやってる」

「なんで今まで言わへんかったん」

「聞かれへんかったから」

「聞くわけないやん。くーちゃんがそんなにできると思わへんもん」

「ひどい」

「いや、ほんまに」

久美子は、少しだけ口をとがらせた。

和枝が真面目に聞いた。

「段は持ってるの?」

久美子は、少し恥ずかしそうに答えた。

「六段」

ミサは固まった。

百合子も固まった。

和枝でさえ、少し目を見開いた。

「六段?」

ミサの声が大きくなった。

近くの生徒がこちらを見た。

和枝がすぐに言った。

「声」

ミサは慌てて口を押さえた。

それから、小声で言った。

「六段って、あの六段?」

久美子は首をかしげた。

「ほかにどの六段があるん」

ミサは、少し前の自分の言葉を返された気がした。

百合子が笑った。

「くーちゃん、すごい」

「でも、歩くのは遅いで」

ミサが言うと、久美子はすぐに言い返した。

「歩くのとそろばんは違うもん」

「鞄閉めるのも遅い」

「それも違う」

「教科書探すのも遅い」

「それも違う」

和枝が冷静に言った。

「確かに、そろばんの時だけ速い」

久美子は、なぜか少し誇らしそうにうなずいた。

「そろばんは、見たらわかるから」

ミサは、その言葉を聞いて少し驚いた。

見たらわかる。

普段の久美子は、目の前にある紙も見えていない時がある。
教室を戻る道もわからなくなる。
鞄の中のどこに何を入れたかも忘れる。

でも、そろばんの珠は見えている。
数字の道は、久美子には見えている。

ミサは、初めて久美子を少し違う目で見た。

その日の帰り道、久美子が言った。

「ミサちゃん、そろばん習う?」

「私が?」

「うん。三級くらいやったら、頑張ったら取れると思う」

「三級?」

「商業科やったら、あった方がええやん」

和枝がすぐにうなずいた。

「就職には有利だと思う」

百合子も言った。

「くーちゃんのお家なら、安心やね」

ミサは少し考えた。

そろばんは嫌いではない。
英語よりずっとましだ。
父に就職を反対されることを考えると、何か自分にできるものがほしかった。

「くーちゃんが教えてくれるん?」

ミサが聞くと、久美子はにこっと笑った。

「うん」

ミサは少し不安になった。

「大丈夫かな」

「何が?」

「くーちゃんに教わるのが」

久美子は頬をふくらませた。

「失礼やな」

「だって、いつもは私が教えてるやん」

「そろばんは、私が先生」

その言い方があまりに自然だったので、ミサは少し笑ってしまった。

「ほな、教えてもらおうかな」

久美子の顔がぱっと明るくなった。

「ほんま?」

「ほんま」

「怒らへん?」

「教え方による」

「ミサちゃんが怒ったら、私も怒る」

「先生やから?」

「先生やから」

百合子が笑った。

和枝も、少し口元をゆるめた。

それからミサは、久美子の家のそろばん教室へ通うようになった。

久美子の家は、学校で見る久美子とは少し違う顔を持っていた。

玄関を入ると、そろばんの音が聞こえた。

ぱち、ぱち、ぱち。
ぱちぱちぱち。

小さな子どもたちが机に向かい、真剣に珠をはじいている。
壁には級や段の表が貼られていた。
黒板には、今日の練習問題が書かれている。

久美子の家族は、そろばんを教えていた。

ミサは、その空気に少し圧倒された。

「くーちゃん、ほんまにそろばんの人やったんやな」

久美子は少し得意そうに言った。

「そろばんの人って何」

「いや、なんか、家がそろばんや」

「家は家やけど」

「でも、すごい」

久美子は照れたように笑った。

教室では、三級を目指す生徒も多かった。
商業科の生徒にとって、そろばんの級は大事だった。
就職の時にも、できると言えるものがあるのは心強い。

学校でもそろばんを習い、久美子の家でもそろばんを習う。

ミサにとっては、二重の練習だった。

初めて久美子に教わった日、ミサは不思議な気持ちになった。

いつもは逆だった。

忘れ物をする久美子に、ミサが言う。
道を間違えそうになる久美子に、ミサが言う。
鞄が閉まらない久美子に、ミサが手を出しそうになる。

けれど、そろばんの前では違った。

久美子が、ミサの手元を見て言った。

「ミサちゃん、そこ違う」

ミサは思わず顔を上げた。

「え?」

「今のは、五を入れてから引く」

「こう?」

「違う。ゆっくり」

「くーちゃんにゆっくりって言われた」

「そろばんは、ゆっくりが大事な時もあるねん」

ミサは黙った。

いつもなら言い返していた。
けれど、この時だけは、言い返さなかった。

久美子の指が、ミサのそろばんの上を静かに動いた。

「ここを、こうして、こう」

その動きは、やはり速かった。
でも教え方は、ものすごくゆっくりだった。

「わかった?」

「……たぶん」

「たぶんは危ない」

ミサは、はっとした。

久美子が、いつものミサの言葉を返してきたのだ。

百合子が、後ろで小さく笑った。

和枝も、見学に来ていた。

「立場が逆になってる」

和枝が言った。

ミサは少し顔が熱くなった。

「今だけや」

久美子はにこにこしていた。

「そろばんの時間だけは、私が先生」

「はいはい、先生」

「はいは一回」

ミサは思わず久美子を見た。

「くーちゃん、調子乗ってるやろ」

「乗ってへん。先生やから」

百合子がとうとう笑った。

「くーちゃん先生、かわいい」

「かわいい先生って、どうなん」

ミサが言うと、久美子は真面目な顔で答えた。

「ちゃんと教える先生」

その言葉通り、久美子はちゃんと教えた。

ただし、ものすごくゆっくりだった。

「まず、そろばんを置きます」

「そこから?」

「大事」

「置いた」

「まっすぐ置きます」

「まっすぐやん」

「ちょっと斜め」

「細かい」

「細かいところが大事」

和枝が横でうなずいた。

「それは正しい」

ミサはため息をついた。

「かずちゃんまで久美子側についた」

久美子は続けた。

「次に、気持ちを落ち着けます」

「気持ち?」

「焦ったら珠が逃げる」

「珠は逃げへんって、私いつも言うてるやん」

「でも、ミサちゃんの珠は今逃げてる」

ミサは何も言えなかった。

実際、ミサのそろばんの珠は、変なところに残っていた。

百合子がやさしく言った。

「ミサちゃん、くーちゃんの言うこと聞いてるね」

ミサは、そろばんを見たまま答えた。

「この時間だけな」

「それでも、すごい」

和枝も言った。

「ミサちゃんが素直」

「言い方」

久美子は楽しそうだった。

「ほら、もう一回」

ミサは、久美子の言う通りに珠を戻した。

ぱち。

その音が、少し気持ちよかった。

何度か通ううちに、ミサは少しずつそろばんに慣れていった。

学校の授業だけではわからなかったところも、久美子のゆっくりすぎる説明で、かえってわかることがあった。

「ここで急いだら間違える」

久美子は言った。

「ミサちゃん、怒る時も急ぐけど、そろばんも急ぐ」

「怒る時は関係ないやろ」

「あると思う」

「何で」

「気持ちが先に行くから」

その言葉に、ミサは少し黙った。

気持ちが先に行く。

それは、久美子にしては鋭い言葉だった。

ミサはいつも、思ったことが先に口から出る。
困っている人を見ると、先に手が出る。
怒る時も、考えるより先に声が出る。

そろばんでも、指が先に走って間違える。

「くーちゃん」

「何?」

「たまに、ええこと言うな」

久美子は頬をふくらませた。

「たまに?」

「たまに」

「そこは、いつもって言って」

「それは無理」

久美子は拗ねた。

でも、教える時は拗ねながらも丁寧だった。

そのうち、百合子も和枝も、久美子の家へ来るようになった。

最初は、ミサが教わっている姿を見に来ただけだった。

百合子は言った。

「ミサちゃんが、くーちゃんの言うことをちゃんと聞いてるの、初めて見たかもしれない」

ミサは言った。

「見物料取るで」

和枝は真面目に言った。

「でも、そろばんは役に立つ。私も少し習っておきたい」

「かずちゃんは、すぐ役に立つって言う」

久美子が言うと、和枝はうなずいた。

「役に立つものは役に立つ」

百合子も、少し照れながら言った。

「私も、できたらいいな」

久美子は嬉しそうにうなずいた。

「じゃあ、みんなでやろう」

そうして、四人は時々、久美子の家のそろばん教室に集まるようになった。

学校とは違う四人だった。

ミサは怒りながらも、久美子の言うことを聞く。
久美子はゆっくりすぎるくらいゆっくり教える。
百合子は間違えても静かに笑う。
和枝は一度説明されると、すぐに整理して覚える。

「かずちゃん、覚えるの早い」

久美子が言うと、和枝は答えた。

「手順がわかればできる」

「手順って、かずちゃんらしい」

百合子が笑った。

ミサは、そろばんの珠を戻しながら言った。

「くーちゃん、次」

「焦らない」

「早く三級取りたいねん」

「急いだら間違える」

「わかってる」

「ほんまに?」

「ほんま」

「たぶん?」

「ほんま!」

久美子は満足そうにうなずいた。

「よろしい」

ミサは思わず笑った。

「先生みたいやな」

「先生やもん」

久美子がそう言うと、四人は笑った。

けれど、笑いながらも、ミサは思っていた。

久美子には、久美子の場所がある。

みんなより遅いところもある。
忘れるところもある。
迷うところもある。

でも、そろばんの前では違う。

そこには、久美子だけが見えている道があった。

そして、その道を、今度はミサが教えてもらっている。

そのことが、ミサには少しうれしかった。

そんなミサの中には、大きな問題があった。

父である清太郎のことだった。

清太郎は、古い考えの人だった。

大手の造船所に勤める働き者であり、お茶やお花、尺八をたしなむ文化人でもあった。
姿勢を正し、物の扱いを知り、音や形を大切にする人だった。

ミサは、そんな父を誇らしく思うこともあった。

けれど、家の中での父は、別の顔も持っていた。

「女は、勉強なんかせんでいい」

父は、そう言うことがあった。

「さっさと結婚すればいい」

その言葉を聞くたびに、ミサの胸の奥で何かが固くなった。

父は、息子たちには違うことを言った。

「大学まで行け」

「勉強しろ」

弟たちは、とてもよくできた。
一流の高校へ進み、国立の一級校へ進んでいった。

父の考えは簡単には変わらなかった。

娘には、結婚。
息子には、大学。

それが、その時代の当たり前だったのかもしれない。

けれど、ミサはその当たり前が好きではなかった。

自分の道を、自分で選んではいけないのか。
女だから、先に決められてしまうのか。

弟たちは先へ行けと言われ、自分は早く家庭に入れと言われる。

納得できなかった。

ある日、進路の希望を提出する紙が配られた。

教室の中に、少しざわめきが起きた。

それは、ただの紙だった。
けれど、その紙には、卒業後の道を書かなければならなかった。

ミサは紙を見つめた。

就職希望。

そう書くことになるのだろう。

家へ帰る道、市電の中で、ミサはその紙のことを考えていた。

窓の外には、夕方の町が流れている。

工場の煙突。
商店街。
自転車で急ぐ人。
夕飯の支度を思わせる匂い。

此花は、少しずつ変わっていた。

工業地帯として、町はまた勢いを取り戻していた。
工場の中に汽車が走っているのを見たこともある。
大きな音を立てて、鉄のものを運んでいく。

煙も、匂いも、町の一部だった。

近代化。

そんな言葉を大人たちは使ったのかもしれない。
けれど、子どものころのミサには、それは音と煙と人の働く姿だった。

便利になっていく一方で、空気が汚れることもあった。
町が元気になることと、町が苦しくなることが、同じ場所にあった。

父は、その大きな時代の中で働いていた。

働くということは、ただお金を得ることだけではない。
町を動かすことでもある。
家を支えることでもある。
自分の足で立つことでもある。

ミサは、そう思い始めていた。

ある晩、ミサは進路の紙を父に見せた。

父は紙を見て、少し眉を動かした。

「就職か」

「うん」

「女の子が、そんなに働かんでもええ」

ミサは、すぐに返事をしなかった。

台所の方から、母が何かを片づける音が聞こえた。
弟の気配も、別の部屋にあった。

父は続けた。

「勉強もほどほどでええ。女は、いずれ結婚するんやから」

その言葉は、何度も聞いた言葉だった。

けれど、その日は、いつもより胸に刺さった。

ミサは、紙を膝の上で握った。

「でも、働く」

声は、思っていたより小さかった。

父がミサを見た。

「何?」

ミサは、今度は顔を上げた。

「働く。卒業したら」

部屋の空気が少し止まった。

父は怒鳴らなかった。
ただ、じっとミサを見た。

ミサは怖くなかったと言えば、嘘になる。

けれど、言わなければ、また黙ってしまうと思った。

玉音放送の日、うれしいのに黙っていた自分。
淡路島で、言い返せずにいた自分。
父の言葉に、胸の中だけで反発していた自分。

その全部が、今、ミサの背中を押していた。

「英語は嫌いやけど、そろばんはやる」

ミサは言った。

「商業科やし、働けるようにする。三級も取るつもり」

父は黙っていた。

その沈黙が長く感じられた。

すると、別の部屋から弟が顔を出した。

「ええやないですか」

父が弟を見た。

弟は、静かに言った。

「ミサも、自分で決めたらええと思います」

ミサは弟を見た。

弟は、強く言ったわけではなかった。
けれど、その言葉はまっすぐだった。

父は、すぐには何も言わなかった。

やがて、少しだけ息を吐いた。

「好きにせえ」

それは、許した言葉だったのか。
あきらめた言葉だったのか。

ミサにはわからなかった。

けれど、その日、進路の紙は取り上げられなかった。

ミサは、自分の部屋に戻ってから、しばらくその紙を見ていた。

就職希望。

その文字が、少しだけ重く、少しだけまぶしく見えた。

翌日、学校でその話をすると、久美子は目を丸くした。

「お父さんに言うたん?」

「言うた」

「怖なかった?」

「怖かった」

ミサが素直に言うと、久美子は少し驚いた顔をした。

「ミサちゃんでも怖いことあるんや」

「あるわ」

「いつも怖いもんないみたいやのに」

「ある」

ミサは少しだけ笑った。

「でも、言わなあかんことはある」

百合子が静かにうなずいた。

「ミサちゃんらしい」

和枝も言った。

「就職するなら、そろばんは大事」

「そこ?」

ミサが言うと、和枝は真面目な顔でうなずいた。

「そこ」

久美子も、少し得意そうに言った。

「三級、取ろうな」

ミサは久美子を見た。

「先生、お願いします」

久美子は嬉しそうに笑った。

「はい。まず、そろばんをまっすぐ置きます」

「またそこから?」

「大事」

ミサはため息をついた。

百合子が笑い、和枝がうなずいた。

三年生の教室には、だんだん卒業の気配が入ってきた。

まだ先だと思っていたものが、少しずつ近づいてくる。

先生の話。
進路の紙。
そろばんの音。
英語の授業へのため息。
放課後のそろばん教室。
家での父との会話。
友だちとの相談。

そのどれもが、ミサたちを少しずつ大人の方へ押していた。

けれど、四人でいる時だけは、まだ女子校生のままだった。

久美子が紙をなくしかける。
ミサが怒る。
百合子が笑う。
和枝が正しい場所を指示する。

それだけで、教室はいつもの教室になる。

ある日のそろばん教室で、久美子が言った。

「ミサちゃん」

「何」

「そこ、また急いでる」

「急いでへん」

「急いでる」

「どこが」

「珠が怒ってる」

「珠は怒らへん」

「でも、ミサちゃんの珠は怒ってる音がする」

ミサは、そろばんを見た。

確かに、指が少し乱れていた。

久美子は、ゆっくり言った。

「焦らんでええよ。ひとつずつ戻したら、ちゃんと答え出るから」

その声は、いつもの久美子より少し大人びて聞こえた。

ミサは、素直にうなずいた。

「わかった」

百合子が小さく笑った。

「ミサちゃんが、素直」

和枝も言った。

「貴重」

「二人とも、うるさい」

ミサは言ったが、怒ってはいなかった。

久美子は、そろばんの珠をそっと戻した。

「もう一回」

「はい、先生」

「はいは一回」

「……はい」

四人は笑った。

教室の中に、そろばんの音が響いていた。

ぱち、ぱち、ぱち。

それは、卒業へ向かう音でもあった。
子どもだった時間が少しずつ終わり、働く日々へ向かっていく音だった。

卒業後、それぞれの道へ行く。

それは避けられない。

和枝は、大きな会社へ向かおうとしている。
百合子も、百合子なりの道を考え始めている。
久美子も、不安そうにしながら、自分の進路の紙をなくさないように胸に抱えている。

そしてミサも、父に向かって「働く」と言った。

まだ女子校生だった。
けれど、もう子どものままではいられなかった。

ミサは鞄の中の赤い花のしおりに、そっと触れた。

京都で買った、ただの紙のしおり。

けれど、それはミサに思い出させた。

四人で行けば、遠い場所にも行ける。
遅くても、迷っても、怒っても、待てばいい。
そしてまた歩き出せばいい。

ミサは、進路の紙を鞄にしまった。

今度は、自分の番だった。

卒業のあとへ向かって、歩き出す番だった。


序章 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 最終章


第10章 初めての給料

卒業して、ミサは働くようになった。

職場は、大阪梅田の近くにある浄正橋だった。

じょうしょうばし。

その地名を初めて聞いた時、ミサは少し大人になったような気がした。

学校の教室ではない。
先生の声が聞こえる場所でもない。
服装検査があるわけでもない。

けれど、そこには学校とは別の厳しさがあった。

朝、家を出る時間は早かった。

女子校へ通っていたころと同じように、市電の音を聞きながら町を進む。
けれど、制服で学校へ向かう朝とは違っていた。

鞄の中には教科書ではなく、働くためのものが入っている。
頭の中には時間割ではなく、その日にしなければならない仕事があった。

市電の窓から見る大阪の町は、少しずつ変わっていた。

戦争の跡は、まだ完全には消えていなかった。
けれど、焼け野原ばかりだった場所には、建物が建ち始めていた。
商店には品物が少しずつ並ぶようになり、人の声も以前より明るくなっていた。

何もない時代から、少しずつ物がある時代へ。
切符がなければ配給も受け取れなかったころから、お金を出せば買えるものが増えていく時代へ。

町は、毎日少しずつ動いていた。

浄正橋のあたりには、働く人の足音があった。

朝になると、男の人も女の人も、同じ方向へ急いで歩く。

鞄を持つ人。
書類を抱える人。
自転車で通り過ぎる人。
店を開ける人。
荷物を運ぶ人。

そこにいるだけで、ミサは自分も大阪の一部になったような気がした。

職場に入った最初の日、ミサは緊張していた。

学校では、先生が何をするか教えてくれた。
決められた時間割があり、席があり、教科書があった。

けれど仕事場では、空気が違った。

一つ一つの動きに責任がある。
間違えれば、誰かに迷惑がかかる。
笑ってごまかせないこともある。

ミサは、それをすぐに感じた。

「おはようございます」

そう言う声も、学校の朝の挨拶とは違った。

相手は先生ではない。
同じ会社で働く人。
年上の人。
仕事を教えてくれる人。

見られているのは、成績だけではない。
働く姿そのものだった。

ミサは、商業科で習ったことを思い出した。

そろばん。
帳面。
数字。
書類。
字をきちんと書くこと。
間違いを見つけること。

英語は大嫌いだった。
けれど、そろばんは役に立った。

ぱち、ぱち、と珠をはじく音が、仕事の中でも聞こえる。

学校の教室で聞いたそろばんの音とは違う。
今度は、本当に仕事につながる音だった。

ミサは、初めのころ、何度も緊張した。

書類を渡される。
数字を確認する。
帳面に書く。
間違えていないか、もう一度見る。

自分では大丈夫だと思っても、誰かに見られると不安になる。

けれど、不安だからこそ、ミサは丁寧に見た。

仕事をしながら、和枝のことを思い出すこともあった。

次が間違わないように、今を整える。

和枝が実際にそう言ったかどうかはわからない。
けれど、和枝はいつもそういう人だった。

机を整える。
時間を守る。
紙を決まった場所に入れる。
そろばんの珠を戻す。

ミサは仕事をしながら、時々思った。

かずちゃんなら、ここでもきちんとやるやろな。

実際、和枝は大きな会社へ就職していた。
きっと背筋を伸ばして働いている。
きっと遅刻などしない。
きっと机の上も整っている。

そう思うと、ミサは少し笑いそうになった。

久美子なら、どうしているだろう。

仕事場で鞄を開けっぱなしにしていないだろうか。
書類をどこかへ入れて、わからなくなっていないだろうか。

でも、そろばんの前では、誰よりも速く指を動かしているかもしれない。

そう思うと、ミサの胸の中に、そろばん教室での久美子の顔が浮かんだ。

「ミサちゃん、そこ違う」

あの時の久美子は、少し先生の顔をしていた。
いつもは遅くて、忘れ物ばかりして、ミサに怒られていた久美子が、そろばんの前ではまっすぐだった。

百合子は、きっとどこにいても百合子らしい。

やわらかく笑って、場の空気をほどいているだろう。
誰かが困っていたら、先に気づいているだろう。

三人のことを思い出すと、職場の緊張が少しだけゆるんだ。

けれど、もう教室には戻れない。

朝、同じ校門をくぐることはない。
昼休みに四人で弁当を広げることもない。
服装検査で久美子が慌てることも、和枝が時計を見ることも、百合子が笑ってなだめることも、毎日のことではなくなった。

それでも、ミサの中には四人の時間が残っていた。

働き始めてしばらくして、ミサは初めての給料をもらった。

封筒に入った給料だった。

ミサは、その封筒を受け取った時の重さを覚えている。

大金というほどではない。
けれど、自分が働いて受け取ったお金だった。

学校で点をもらうのとは違う。
家でもらう小遣いとも違う。

自分の時間と、自分の手と、自分の責任で得たものだった。

ミサは、封筒を鞄にしまった。

いつものようにしまったつもりなのに、何度も鞄の中を確認した。

ちゃんと入っているか。
落としていないか。
誰かに見られていないか。

自分でもおかしくなった。

久美子のことを笑えない。

そう思った。

帰りの市電で、ミサは鞄を膝の上に置いた。

給料の入った封筒が、その中にある。

窓の外には、夕方の大阪が流れていた。

会社帰りの人たち。
買い物袋を持つ女の人。
道端で話している人。
灯りがつき始めた店。

町は、戦後の暗さから少しずつ立ち上がっていた。

まだ十分ではない。
まだ貧しさもある。

けれど、確かに何かが戻ってきていた。

ミサは、初めての給料で何を買うか考えた。

欲しいものはあった。

パンスト。

当時、パンストは高かった。
若い女の子にとって、憧れのようなものでもあった。

きれいな服に合わせたい。
少し大人っぽく見える。
働く女性らしい感じがする。

ミサも、欲しかった。

店先で見た時、しばらく足が止まった。
手を伸ばせば届く場所にある。
けれど、値段を見ると、ため息が出た。

高い。

買えないことはないのかもしれない。
でも、簡単には買えない。

家のこともある。
必要なものもある。
自分のためだけに使っていいのか迷う。

ミサは、パンストを見て、しばらく考えた。

そして、買わなかった。

買えなかった、という方が近いのかもしれない。

映画へ行くことも考えた。

映画館の前を通ると、大きな看板が出ていた。
人が集まり、灯りがついている。
そこには、仕事の疲れを忘れさせるような明るさがあった。

けれど、ミサはその日、映画館へは入らなかった。

初めての給料だった。

自分のために使いたい気持ちはあった。
けれど、最初だけは、どうしても家のことが頭に浮かんだ。

母の背中。
台所に立つ姿。
戦中戦後、何もない中で食事を作り続けていた手。

水の中に、米粒が少し浮いているだけの茶碗。
それを「食べなさい」と出した母の声。

母は、自分の分を少なくしていたのかもしれない。
子どもには気づかれないようにしていたのかもしれない。

けれど、子どもはそういうことに気づく。

ミサは、母に白い割烹着を買った。

まっ白な布だった。

派手なものではない。
高価なものでもない。
けれど、ミサはそれを見た時、母に似合うと思った。

戦争のころの暗い台所ではなく、少しずつ明るくなっていく台所に立つ母。
その母の背中に、まっ白な割烹着をかけたかった。

父には、少し良い茶葉を買った。

買う時、ミサは少し迷った。

父は、ミサに言った人だった。

「女の子が、そんなに働かんでもええ」

「女は、いずれ結婚するんやから」

その言葉を、ミサは忘れていなかった。

けれど、父はそれだけの人ではなかった。

大手の造船所で働き、お茶をたしなみ、お花をたしなみ、尺八も吹く人だった。
姿勢を正し、物の扱いを知り、音や形を大切にする人だった。

ミサは、父に反発していた。
でも、父を嫌い切ることはできなかった。

初めての給料で父に茶葉を買う。

それは、ありがとうと言いたいのか。
見てほしいと言いたいのか。
私は働いた、と言いたいのか。

自分でも、よくわからなかった。

ただ、給料袋の中から、自分の手で選んだお金で買ったものだった。

家へ帰ると、母は台所にいた。

いつものように、何かを片づけていた。
ミサが「ただいま」と言うと、母は振り向いた。

「おかえり」

その声を聞いた時、ミサは急に照れくさくなった。

鞄の中には、白い割烹着と茶葉が入っている。
渡すだけのことなのに、なぜか言葉が出にくかった。

「お母ちゃん」

「何?」

ミサは、包みを出した。

「これ」

母は、手を拭いてから受け取った。

「何?」

「初めての給料で買った」

その言葉を言うと、胸の奥が少し熱くなった。

母は、包みを見つめた。
すぐには開けなかった。

「私に?」

「うん」

母は、ゆっくり包みを開いた。

白い割烹着が出てきた。

母は、しばらくそれを見ていた。

指先で布をなぞる。
襟のところを持つ。
広げて、また少し畳む。

「白いなあ」

母は小さく言った。

その声が、ミサにはやさしく聞こえた。

「台所で使えると思って」

ミサは言った。

母は、ミサを見た。

「大事な給料やのに」

「ええねん」

「自分のもの、買わんかったん?」

「また買う」

そう言ったけれど、ミサは少しだけ嘘をついた気がした。

本当は、パンストも欲しかった。
映画にも行きたかった。

でも、それを言うのはやめた。

母は、割烹着を胸に当てた。

「ありがとう」

その一言は、静かだった。

けれど、ミサには十分だった。

ミサは、もう一つの包みを出した。

「これ、お父ちゃんに」

母が少し驚いた顔をした。

「お父ちゃんに?」

「お茶」

ミサは、少し目をそらした。

「私から渡すのは、ちょっと……ええわ。お母ちゃんから渡して」

母は、ミサを見た。

何かを言いかけて、言わなかった。

ただ、包みを受け取った。

「わかった」

それだけ言った。

しばらくして、父が帰ってきた。

家の中の空気が少し変わる。
父の足音。
戸を開ける音。
低い声。

ミサは、何でもないふりをしていた。
けれど、耳は父の方を向いていた。

父は帰ってくると、しばらくして座敷の方へ行った。

そこには、花の器があった。
父は、手を洗い、静かに器の手入れを始めた。

水を替える。
花の向きを見る。
器の口を拭く。
花の茎を少し直す。

その動きは、仕事から帰った人の荒い動きではなかった。
静かで、丁寧だった。

ミサは、その横顔を遠くから見た。

父は、こういう時だけ、別の人のように見える。
厳しくて、古くさくて、娘には勉強などいらないと言う父。
けれど、花に触れる時の父の手は、乱暴ではなかった。

母が台所からお茶を運んできた。

湯気が立っていた。

ミサは、台所の陰からそれを見ていた。

母は、何も大げさなことは言わなかった。

ただ、父の前に茶を置いた。

「これ、ミサが初めてのお給料で買うてきたお茶です」

父の手が、少し止まった。

ミサは息を止めた。

父は、すぐには何も言わなかった。

茶碗を手に取る。
湯気を見る。
少しだけ香りを確かめる。

それから、一口飲んだ。

部屋の中が、やけに静かに感じられた。

ミサは、台所の陰でじっとしていた。

父は茶碗を置いた。

そして、低い声で言った。

「うまいな」

それだけだった。

けれど、少し間を置いて、父はもう一度言った。

「ありがとう」

その言葉は、母に向かって言ったようにも聞こえた。
けれど、ミサに聞こえるように言ったのだと、ミサにはわかった。

ミサは、台所の陰で、動けなかった。

父が直接こちらを見たわけではない。
「よう働いた」と言ったわけでもない。
「認める」と言ったわけでもない。

それでも、十分だった。

ありがとう。

父の口から、その言葉が出た。

それだけで、給料袋の重さが、もう一度ミサの手の中に戻ってきたような気がした。

母は何も言わず、少しだけ笑っていた。

白い割烹着は、台所のそばに置かれていた。
まだ着てはいなかった。
けれど、その白さだけで、家の中が少し明るくなったように見えた。

ミサはその夜、自分の部屋で鞄を開けた。

給料の残りは少なかった。

パンストは買えなかった。
映画にも行かなかった。

けれど、後悔はなかった。

母の白い割烹着。
父の茶葉。
父の「ありがとう」。

それだけで、初めての給料は、ミサの中で忘れられないものになった。

配給切符の時代。

水の中に米粒が浮いていた時代。
食べられる草を学校へ持って行った時代。
母が着物を米と交換しに行った時代。

その時代を思えば、自分の給料で誰かに何かを買えることは、十分に大きなことだった。

ミサは働いていた五年間のことを、あとになってよく思い出した。

毎日が楽だったわけではない。

仕事には緊張もあった。
失敗しないように気をつかった。
家のこともあった。
自分の自由になるお金も多くはなかった。

それでも、そこには新しい時代の匂いがあった。

若い女の子が働く。
給料をもらう。
両親に贈り物をする。
友だちと会う。
町を歩く。
映画へ行く。

戦争のころには想像しにくかったことが、少しずつ日常になっていた。

ある休日、ミサは久美子と会う約束をした。

映画へ行くためだった。

映画は、当時の大きな娯楽だった。

暗い館内に入る。
席に座る。
周りのざわめきが少しずつ静まる。
やがて画面が明るくなる。

その瞬間、町のことも、仕事の疲れも、家のことも、少し遠くなる。

映画の中には、別の世界があった。

今までの日本の男の人とは違って見えた。
どこか新しく、どこか自由で、少し危なっかしく、まぶしかった。

映画館の前には、人が並んでいた。

友だち同士で来ている人。
若い男女。
仕事帰りらしい人。

みんな、少しだけ日常を離れる顔をしていた。

待ち合わせの時間になっても、久美子は来なかった。

ミサは腕を組んだ。

「くーちゃん……」

やっぱり、と思った。

五分ほどして、久美子が角の向こうから現れた。

走っていた。

いや、本人は走っているつもりだった。

「ごめん!」

ミサは言った。

「何分遅れ?」

「少し」

「少しって便利な言葉やな」

「ほんまに少し」

「時計見た?」

「見たような気がする」

「それは見てへん」

久美子は頬をふくらませた。

「働いても、ミサちゃんは怒るんやね」

「くーちゃんが遅れる限り、怒る」

「一生怒られるかもしれへん」

「ありえる」

二人は顔を見合わせて笑った。

映画館の看板を見上げる。

大きな文字。
俳優の顔。
宣伝の絵。
灯り。

そこには、戦争の赤い光とは違う明るさがあった。

人を怖がらせる光ではない。
人を中へ誘う光だった。

OS劇場。

その名前には、都会の響きがあった。

大阪が少しずつ明るくなり、映画や音楽や洋画が人々の暮らしに入ってくる。
そういう時代の入口に立っているような気がした。

洋画も入り出していた。

外国の言葉は、やはり好きにはなれなかった。
英語は高校のころから大嫌いだった。

けれど、映画の中で聞く外国の言葉は、授業とは違った。

意味が全部わからなくても、画面の中の人の表情や動きで、何かが伝わってくる。

知らない町。
知らない服。
知らない音楽。
遠い国の景色。

ミサは不思議な気持ちでそれを見た。

あれほど嫌いだった英語なのに、映画の中では少しだけ許せた。

映画が終わると、外の町が少し違って見えた。

劇場を出たあと、夜の大阪の空気が肌に当たる。

人の声がする。
市電の音がする。
店の灯りが道に伸びている。

ミサは、まだ映画の中に片足を残したような気分で歩いた。

久美子は、映画の話をしながらも、途中で別の店の飾りに気を取られた。

「くーちゃん、そっちちゃう」

「わかってる」

「今、完全に曲がりかけた」

「映画のこと考えてたん」

「映画のこと考えながらでも、道は見なさい」

「ミサちゃん、仕事始めても同じやね」

「くーちゃんも同じや」

二人はまた笑った。

百合子とも会った。

百合子は相変わらずやわらかく笑った。
でも、学生のころより少し落ち着いて見えた。

家のこと。
これからのこと。
自分の道のこと。

百合子も百合子なりに、大人になっていく途中だった。

和枝とも会った。

和枝は、仕事の話をすると本当に和枝らしかった。

「朝は何時に出るの」

「書類はどう整理してるの」

「給料は何に使ったの」

質問が具体的だった。

ミサが「お母ちゃんに割烹着、お父ちゃんにお茶」と答えると、和枝は少し驚いた顔をした。

「自分のものは?」

「パンスト、欲しかったけど高かった」

「パンストではなく?」

「高かった」

「それはわかる」

「あと、久美子と映画に行った」

和枝は少し考えてから言った。

「それも大事やね」

その言い方があまりに和枝らしくて、ミサは笑った。

四人は、もう毎日一緒ではなかった。

同じ教室で弁当を広げることはない。
同じ先生に注意されることもない。
校門で待ち合わせることも、以前ほどはない。

それでも、会えばすぐに戻れた。

久美子が遅れる。
ミサが怒る。
百合子が笑う。
和枝が時間を見る。

それだけで、女子校時代の空気が戻ってきた。

けれど、みんな少しずつ前へ進んでいた。

ミサも、働きながら少しずつ大人になっていった。

戦後の大阪が少しずつ明るくなっていく記憶と重なっている。

中学のころ、焼けた校舎はまだ建て直されていなかった。
伝法まで歩いた。
梅田の闇市は怖かった。
四貫島の市場も覚えている。

町が目に見えて発展し始めたのは、中学の終わりごろだった。
そして高校生になるころには、少しずつ物があるようになった。

お金を出せば買える。

それだけのことが、どれほど大きかったか。

物のない時代を知らない人には、なかなか伝わらないかもしれない。

ミサにとって、初めての給料は、ただのお金ではなかった。

それは、戦後の貧しさを越えて、自分の手で何かを得た証だった。

父に「女は勉強なんかせんでいい」と言われても、自分で働くと決めた証だった。
女子校時代に身につけた声と、そろばんと、意地が、社会の中で少し形になったものだった。

ある日、ミサは映画館の前で立ち止まった。

看板には、新しい映画の題名が大きく出ていた。
灯りがつき、人が集まっている。

ミサは鞄の中の財布を確かめた。

パンストは、まだ買えないかもしれない。
でも、映画なら行ける。

そう思った時、ふと笑いがこみ上げた。

昔の自分に言ってやりたかった。


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最終章 卒業式の日

卒業式の前の日の夜、久美子がミサを呼び出した。

家の用事を済ませ、夕飯の片づけの音がまだ台所に残っているころだった。
外はもう暗くなっていた。
春が近いとはいえ、夜の空気にはまだ冷たさがあった。

ミサは、久美子に言われた場所へ向かった。

待ち合わせは、学校へ行く時に何度も通った道の途中だった。
市電の停留所から少し歩いたところに、小さな角がある。
朝は女学生たちの足音でにぎやかになるその場所も、夜になると、昼間とは違う顔をしていた。z

店じまいをした商店の戸が閉まり、軒先の電灯がぽつんと光っている。
遠くから市電の音が聞こえた。
がたん、がたん、とレールを渡る音が、夜の町に細く響いた。

久美子は、その電灯の下に立っていた。

ミサは、すぐにわかった。
姿勢が少し前に傾いていて、手には何かを大事そうに抱えている。
寒いのか、緊張しているのか、肩が小さく上がっていた。

「くーちゃん」

ミサが声をかけると、久美子はびくっとした。

「びっくりした」

「呼び出したん、くーちゃんやん」

「そうやけど」

久美子は、手に持っていた包みをぎゅっと抱え直した。

「なに、それ」

ミサが聞くと、久美子は少し口を結んだ。
何か大事なことを言おうとしている顔だった。

ミサは黙って待った。

いつものミサなら、すぐに聞き出していた。
「早く言いなさい」
「何をもったいぶってるの」
そう言っていたかもしれない。

けれど、その夜の久美子は、いつもと違って見えた。
だからミサは、めずらしく急かさなかった。

久美子は、しばらくしてから言った。

「ミサちゃん」

「うん」

「明日で、卒業やん」

「そら、そうやな」

「三年間、いろいろあったやん」

「ありすぎたな」

「うん」

久美子はうなずいた。
そして、また黙った。

ミサは少しだけ首をかしげた。

「それ言うために呼んだん?」

「違う」

久美子は慌てて首を振った。
その拍子に、抱えていた包みが少しずれた。

「危ない」

ミサが思わず手を出しかけると、久美子は包みを胸に押しつけた。

「自分で持てる」

「まだ何も言うてへん」

「言いそうやった」

「言うてへん」

「顔が言うてた」

ミサは少し笑いそうになった。
けれど、久美子は真剣だった。

「ミサちゃん、私な」

「うん」

「百合子ちゃんと、和枝ちゃんに、ちゃんとお礼言いたい」

ミサは、久美子を見た。

久美子は、うつむいたままだった。
けれど、その声は震えていなかった。
ゆっくりしているけれど、ちゃんと決めてきた声だった。

「私ら、ずっと喧嘩してきたやん」

「まあな」

「毎日みたいに」

「毎日ではないやろ」

「毎日みたいに」

「まあ、みたいに、やな」

「そのたびに、百合子ちゃんと和枝ちゃん、止めてくれたやん」

ミサは黙った。

そうだった。

入学式の日から、ミサと久美子はしょっちゅう喧嘩した。
廊下で。
教室で。
帰り道で。
百合子の家で。
京都へ行く前にも。
行った先でも。

百合子は困ったように笑いながら間に入り、和枝は時計や予定や規則を持ち出して、二人を止めた。
何度も、何度も。

久美子は小さく息を吸った。

「迷惑、かけたなあと思って」

「それは、くーちゃんだけちゃうやろ」

「うん。ミサちゃんも」

「なんで私の名前、そこで強く言うん」

「ほんまのことやもん」

「くーちゃんもやで」

「わかってる」

二人は少しにらみ合った。
けれど、いつもの喧嘩の勢いにはならなかった。

夜の空気が静かすぎた。
明日が卒業式だと思うと、いつもの言葉も少し違って聞こえた。

久美子は、抱えていた包みを開いた。

中から出てきたのは、一枚の厚い紙だった。
真っ白ではない。
少しざらざらした、生成り色の紙だった。

そこに、黒い字が書いてあった。
墨で書いたような、太くて、少し曲がった字だった。

百合子、和枝
ありがとう

ミサは、しばらくその紙を見ていた。

字は、きれいとは言えなかった。
少し右に傾いていて、「ありがとう」の最後の方は、だんだん大きくなっていた。
けれど、そのぶん、久美子が一生懸命書いたことがわかった。

「これ、くーちゃんが書いたん?」

「うん」

「炭で?」

「うん。墨なかったから」

「炭で書いたん?」

「炭で書けるかなと思って」

「書けてるけど」

「手、真っ黒になった」

久美子は、少し恥ずかしそうに手を見せた。
爪のあたりに、まだ黒いものが残っていた。

ミサは笑った。

「くーちゃんらしいわ」

「笑わんといて」

「笑ってへん」

「笑ってる」

「ちょっとだけ」

久美子はまた頬をふくらませた。
けれど、すぐに真面目な顔に戻った。

「それでな」

「うん」

「普通に渡したら、泣いてまうやん」

「もう泣きそうやけど」

「まだ泣いてへん」

「目、赤いで」

「夜やから」

「夜のせいにするんや」

「する」

久美子は強く言った。

「だから、びっくりさせたいねん」

「びっくり?」

「卒業式が終わったあと、四人で集まるやん」

「うん」

「そこで、ミサちゃんと私が、喧嘩したふりするねん」

ミサは目を丸くした。

「喧嘩したふり?」

「そう」

「私らが?」

「そう」

「ふりせんでも、普通に喧嘩できるけど」

「だから、上手いやろ」

ミサは、思わず声を出して笑った。

「なにそれ」

久美子も少し笑った。

「百合子ちゃんと和枝ちゃんが、また止めに入るやん。そしたら、二人で『うっそ』って言うて、この紙を見せるねん」

久美子は紙を持ち上げた。

「百合子、和枝、ありがとう、って」

ミサは、紙を見た。
そして、久美子を見た。

久美子は真剣だった。

いつも遅くて、いつももたもたしていて、いつも助けられるのを嫌がって拗ねる久美子が、卒業式の前の夜に、こんなことを考えていた。

ミサは、胸の奥が少し熱くなった。

「ええやん」

久美子の顔が明るくなった。

「ほんま?」

「うん。やろう」

「怒らへん?」

「怒るわけないやん」

「でも、ミサちゃん、こういうの苦手かなと思って」

「苦手ちゃう」

ミサは、少し胸を張った。

「やるなら、ちゃんとやる」

「ちゃんと?」

「三年間で一番派手な喧嘩、見せたるわ」

久美子は目を丸くした。

「派手にせんでもええねん」

「いや、やるなら派手にせな」

「先生に怒られたらどうするん」

「卒業式終わってるし」

「そういう問題?」

「そういう問題」

久美子は少し困った顔をした。
けれど、すぐに笑った。

「ほな、お願い」

「任せとき」

ミサはそう言った。

二人は、夜の道に立って、しばらく笑っていた。

市電の音が遠くで鳴った。
がたん、がたん、と、いつもの音だった。
三年間、何度も聞いた音。
学校へ行く朝にも、帰り道にも、京都へ遊びに行く計画を立てた日にも、喧嘩して黙って歩いた日にも、聞こえていた音だった。

明日で、それが終わる。

そう思うと、ミサは急に黙りそうになった。

久美子も、同じことを思ったのかもしれない。
紙をそっと包み直すと、小さな声で言った。

「明日、ちゃんとできるかな」

「できる」

ミサはすぐに言った。

「くーちゃんは、先に泣いたらあかんで」

「泣かへん」

「絶対やで」

「泣かへんって」

「ほんまに?」

「ほんま」

久美子は、力強くうなずいた。

その顔を見て、ミサは少し不安になった。

久美子が「ほんま」と言う時ほど、あやしいことはなかった。

翌日、卒業式の日は、朝からよく晴れていた。

空は高く、薄い雲がゆっくり流れていた。
春の光が、町の屋根や電柱や市電のレールを淡く照らしていた。

ミサは、いつもより早く家を出た。

制服には、三年間の体の癖がついていた。
入学式の日には硬かった袖も、今では自分の腕の動きに合っている。
鞄にも細かな傷があった。
靴にも、何度も歩いた跡があった。

髪は、おかっぱのままだった。

鏡の前に立つと、入学式の日の自分を少し思い出した。
あの日も、同じように制服を着て、同じように市電に乗った。
けれど、あの日の自分は、まだ何も知らなかった。

久美子の遅さも。
百合子のやさしさも。
和枝の几帳面さも。
自分がどれほど人に口を出してしまうかも。
そして、その三人が自分の中でどれほど大事になるかも。

市電の停留所には、卒業生らしい女の子たちが何人も立っていた。
みんな制服姿だった。
笑っている子もいた。
もう泣いている子もいた。
いつもより髪を丁寧に整えている子もいた。

市電が来た。

がたん、がたん、と音を立てて止まる。
ミサは乗り込んだ。
車内には、同じ学校の生徒がいた。
誰もが少し落ち着かない顔をしていた。

窓の外を町が流れていく。

商店の前を掃く人。
自転車で急ぐ人。
工場の煙突。
細い路地。
電線にとまる鳥。

三年間、何度も見た景色だった。
何度も見たのに、その朝だけは、初めて見るように思えた。

学校に着くと、校門の前には卒業生たちが集まっていた。

入学式の日に大きく見えた校門は、今も同じ場所にあった。
けれど、ミサには少し低く見えた。
自分が大きくなったのかもしれない。
それとも、三年間毎日くぐったせいで、校門の方が自分に近づいてきたのかもしれなかった。

運動場には、朝の光が広がっていた。
校舎の窓が光を返している。
廊下には、いつもよりゆっくり歩く生徒が多かった。

ミサは、昇降口で靴を履き替えた。
そこでも、誰かが泣いていた。
別の誰かが「まだ早いわ」と笑っていた。
その笑い声にも、少し涙が混じっていた。

教室に入ると、和枝はもう席についていた。

机の上には、卒業式の式次第がまっすぐ置かれている。
ハンカチも、きちんと畳んで机の端に置かれていた。

「早いなあ」

ミサが言うと、和枝は時計を見た。

「いつも通り」

「卒業式の日くらい、少し遅れてもええのに」

「最後の日に遅れる方が嫌やわ」

和枝らしい答えだった。

百合子は少しあとに来た。

制服の襟元がきれいに整っていて、髪もいつもより丁寧だった。
けれど顔は、少しだけ緊張していた。

「おはよう」

百合子が言った。

「おはよう」

ミサと和枝が答えた。

その声だけで、三人とも何かを感じた。

今日は最後の日だ。

それを、誰も口にしなかった。

久美子は、まだ来ていなかった。

ミサは教室の戸口を何度も見た。
和枝も時計を見た。
百合子は笑いながら言った。

「くーちゃん、最後の日までくーちゃんやね」

ミサは腕を組んだ。

「昨日、あれだけ言うたのに」

「何を?」

百合子が聞いた。

ミサは、あわてて口を閉じた。

「いや、何でもない」

和枝が少し目を細めた。

「何か隠してる?」

「隠してへん」

「その言い方は、隠してる時の言い方やと思う」

「かずちゃん、そういうとこ鋭すぎるねん」

そのとき、廊下からばたばたと足音がした。

久美子だった。

息を切らして教室に入ってきた。
髪が少し乱れている。
鞄の留め金が片方だけ外れている。
靴下も、やはり少しずれていた。

ミサは、反射的に言った。

「くーちゃん!」

久美子は、びくっとした。

「わかってる!」

「まだ何も言うてへん!」

「顔が言うてた!」

「顔は言うわ!」

「言うんや!」

百合子が笑った。
和枝が言った。

「卒業式の日まで、それなんやね」

その言葉で、四人は一瞬黙った。
それから、少しだけ笑った。

式は、講堂で行われた。

生徒たちは、決められた順番に並んで入った。
廊下を歩く足音が、いつもより静かだった。
先生たちの声も、どこか低かった。

講堂には椅子が整然と並んでいた。
正面には壇があり、校旗が置かれている。
窓から入る光が、床の上に長い線を作っていた。

ミサは、席に座った。

隣の列に久美子が見えた。
少し緊張した顔をしている。
百合子は背筋を伸ばしていた。
和枝は式次第を一度確認してから、静かに前を向いた。

卒業証書が一人ずつ渡されていく。

名前が呼ばれる。
返事をする。
立ち上がる。
歩く。
証書を受け取る。
礼をする。
戻る。

ただそれだけの動きが、その日だけは、とても重く見えた。

ミサの名前が呼ばれた。

「はい」

自分の声が、思ったよりはっきり響いた。
壇上へ歩く。
先生の前に立つ。
卒業証書を受け取る。

紙の感触が、手に残った。

三年間が、一枚の紙になる。
そう思うと、不思議だった。

久美子の名前が呼ばれた時、ミサは少し心配した。
転ばないか。
礼の時に証書を落とさないか。
歩く方向を間違えないか。

久美子は、ちゃんと歩いた。
少しゆっくりだったが、ちゃんと受け取った。
席に戻る時、ほんの少しだけミサの方を見た。

ミサは、小さくうなずいた。

久美子も、小さくうなずいた。

作戦は、まだ生きていた。

校長先生の話があった。
先生たちの話があった。
歌も歌った。

歌っている途中で、誰かが泣き始めた。
ひとりが泣くと、あちこちで鼻をすする音が聞こえた。

ミサは泣かなかった。
泣かないつもりだった。

今日の最後には、大事な作戦がある。
百合子と和枝を驚かせなければならない。
三年間で一番派手な喧嘩をしなければならない。

だから泣いている場合ではなかった。

式が終わると、生徒たちは教室へ戻った。

廊下は、ざわざわしていた。
泣きながら先生に挨拶する子。
友だちと写真を撮る子。
卒業証書を大事そうに抱える子。
黒板に何かを書いている子。

教室では、先生が最後の話をした。

「皆さんは、今日でこの学校を巣立ちます」

その言葉を聞いたとき、ミサは胸の奥が少し詰まった。
巣立つ。
それはきれいな言葉だった。
けれど、実際には、ばらばらになるということでもあった。

和枝は大企業へ就職する。
百合子も、自分の道へ進む。
久美子も、ミサも、それぞれの場所へ行く。

明日から、いつもの朝は来ない。
市電に乗って、同じ校門をくぐって、同じ教室に入り、久美子の鞄が開いているのを見つけて怒る朝は、もう来ない。

先生の話が終わった。

教室の空気が一度ゆるみ、みんなが立ち上がった。
椅子を引く音。
机を動かす音。
泣き声。
笑い声。

ミサは久美子を探した。

久美子は教室の後ろで、例の包みを大事そうに持っていた。
目が合うと、久美子は緊張した顔でうなずいた。

ミサも、うなずいた。

作戦の場所は、校門を出た先の少し広い道だった。

四人でいつも帰る時、いったん立ち止まる場所があった。
そこから右へ行けば市電の停留所。
少し歩けば商店が並ぶ道。
さらに向こうには、春の光を受けた町が広がっていた。

卒業式の日の校門前は、人でいっぱいだった。

卒業生。
在校生。
先生。
迎えに来た家族。
あちこちで「おめでとう」と声がして、花束を持った子もいた。

ミサと久美子は、少し早くその場所へ行った。

久美子は、包みを胸に抱えたまま、そわそわしていた。

「くーちゃん、泣いたらあかんで」

ミサが言った。

「泣かへん」

「もう泣きそうやん」

「泣いてへん」

「目、赤い」

「朝から」

「朝から赤いって何」

「そういう日もある」

ミサはため息をついた。

「ちゃんと喧嘩するんやで」

「わかってる」

「私が怒るから、くーちゃんも言い返す」

「わかってる」

「それで、百合子とかずちゃんが止めに来たら」

「うっそ、って言う」

「声、大きく」

「うん」

「紙、見せる」

「うん」

「泣かへん」

「うん」

久美子は、うなずいた。

そのうなずき方を見て、ミサはますます不安になった。

やがて、百合子と和枝が校門から出てきた。

百合子は、手に小さな包みを持っていた。
たぶん、家から持ってきたお菓子か何かだった。
和枝は卒業証書をきちんと抱え、いつも通り背筋を伸ばして歩いていた。

二人が近づいてくる。

今だ。

ミサは、胸の中でそう思った。

三年間で一番派手な喧嘩。

ミサは息を吸った。

「くーちゃん、あんたなあ――」

と言いながら、百合子と和枝を見ていた視線を久美子へと振り返った。

久美子の頬を流れるように涙がつたっていた。

ぽろり、ではなかった。

ぼろぼろだった。

大粒の涙が、久美子の目から一気にこぼれた。
頬を伝い、あごまで落ちた。
久美子は口を開けたまま、声にならない声を出した。

「あ”ーーーーー、あう、あう、、あーー」

ミサは固まった。

「ちょ、くーちゃん」

久美子は、包みを抱えたまま、泣きながら言葉にならないまま、言った。

「ミサちゃんが、怒るから」

「まだ怒ってへん!」

「怒る顔してた」

「作戦やん!」

「わかってるけど、百合子ちゃんと和枝ちゃんの顔見たら、もう無理やった」

百合子と和枝は、目を丸くして立っていた。

「何? どうしたん?」

百合子が心配そうに近づいた。

和枝もすぐに言った。

「また喧嘩? 卒業式の日やのに?」

と言っていた時には、ミサも大粒の涙を一生懸命止めている。

ここで喧嘩を始めなければならない。
作戦を立てたのだ。
久美子と約束したのだ。

だからミサは、無理やり声を張った。

「くーちゃんが悪い!」

けれど、その声は震えていた。

自分でもわかった。
怒っている声ではない。

久美子は、泣きながら言い返した。

「私が悪いけど、ミサちゃんも悪い!もう、泣いてるやん。」

「なんでや!泣いてない。」

「涙こぼれてるやん!」

すでに二人とも泣いていた。

ミサも、涙が出ていた。
怒っているのに、涙が出る。
声を張ろうとすると、喉がつまる。
久美子の顔が涙でぐしゃぐしゃになっているのを見たら、余計に泣けてきた。

二人の間に入ろうとした百合子も泣きそうな顔で、

「もう、二人とも、最後の日まで――」

と、その時、久美子が抱え持っていた包みを落とした。

「えっ、あっ」

と、ミサは、驚き、

和枝がしゃがみ込み、包みを手にした。

「なになん、この黄ばんだ紙、」

と紙を開けたのだった。

百合子の泣き声が、

和枝の涙が、紙の上にポタポタ落ち行くのを全員がわかった瞬間、

4人全員が大泣きするのが、聞こえるようになった。

4人のやり取りに、周りにいた何人かが笑い出した。

でも、その笑いはからかいではなかった。
卒業式の日に、どうしていいかわからない涙を、少しだけ受け止めるような笑いだった。

先生も、少し離れたところで見ていた。
怒ることはしなかった。
ただ、目を細めて、何かを思い出すような顔をしていた。

ようやく久美子が自分で紙を広げた。

生成り色の紙。
炭で書かれた、少し曲がった大きな文字。

百合子、和枝
ありがとう

その字は、きれいではなかった。

けれど、真っ直ぐだった。

いつもなら、字の大きさや曲がり方や、紙の持ち方まで気にしたかもしれない。
けれど、その時の和枝は、何も言わなかった。

ただ、目から涙が落ちた。

久美子は、泣きながら言った。

「ずっと、ごめんね」

ミサも、涙をぬぐわずに言った。

「迷惑かけた」

久美子がすぐに言った。

「ミサちゃんが、特に」

「なんでそこで言うん!」

「ほんまのことやもん!」

「くーちゃんもやろ!」

「私もやけど!」

「私ら二人や!」

「そう、二人!」

二人は、泣きながらまた言い合った。

百合子は、声を出して泣きながら笑っていた。

「もう、最後まで二人らしいわ」

和枝は、涙をぬぐいながら言った。

「ほんまに、最後の日まで予定通りにいかへん」

「かずちゃん」

ミサが呼ぶと、和枝は首を振った。

「でも、ええと思う」

その言葉は、短かった。
けれど、和枝らしくて、十分だった。

百合子は紙にそっと触れた。

「ありがとうって言うのは、こっちやのに」

「なんで?」

久美子が泣きながら聞いた。

百合子は笑った。

「だって、二人がおったから、毎日おもしろかった」

ミサは、胸がつまった。

和枝もうなずいた。

「二人が喧嘩するたびに大変やったけど、二人がおらんかったら、たぶん静かすぎた」

「静かな方がええやん」

ミサが言うと、和枝は少し笑った。

「静かすぎるのは、さみしい」

その言葉で、四人とも黙った。

校門の前には、まだたくさんの人がいた。
誰かが写真を撮っている。
誰かが先生に頭を下げている。
誰かが友だちと抱き合っている。

春の光が、四人の制服に落ちていた。
校舎の窓がきらきら光っていた。
市電の音が、遠くから聞こえてきた。

がたん、がたん。

三年間、何度も聞いた音だった。

久美子は、紙を持ったまま、

「明日から、どうするん」

その声は小さかった。

誰もすぐには答えなかった。

明日から、同じ教室には集まらない。
同じ時間に先生を待たない。
和枝が時計を見て注意することも、百合子が困ったように笑うことも、ミサが久美子に怒ることも、毎日のことではなくなる。

ミサは、久美子の方を見た。

「どうするって」

「会うに決まってるやん」

久美子は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。

「ほんま?」

「ほんま」

「遅れても?」

「怒る」

「怒るんや」

「怒るけど、待つ」

その一言で、久美子はまた泣いた。

百合子が二人を抱きしめた。

最初は久美子の肩に手を回し、それからミサの腕を引いた。
和枝は少し迷ったように立っていたが、百合子に引っぱられて、結局四人でかたまるようになった。

卒業証書が折れそうになって、和枝が小さく言った。

「証書、つぶれる」

「今それ言う?」

ミサが泣きながら笑った。

「大事やから」

「かずちゃんらしい」

百合子が笑った。
久美子も泣きながら笑った。

四人は、校門の横でしばらくそのままだった。

周りの人たちは、少し離れて見ていた。
誰かが笑った。
誰かが涙をぬぐった。
先生が、そっと後ろを向いた。

それは、特別な別れではなかったのかもしれない。
卒業式の日には、どこにでもある光景だったのかもしれない。

けれど、ミサにとっては違った。

戦争のころ、ミサは一人だった。
淡路島の空の下で、のけ者にされ、空を見上げ、海の向こうの赤い光を見た。
嬉しいことも、怖いことも、言葉にできなかった。

そのミサが、今、友だちの前で泣いていた。
怒りながら泣き、笑いながら泣き、ありがとうと言えずに、ありがとうを受け取っていた。

喧嘩できる相手がいる。
止めてくれる友だちがいる。
笑ってくれる人がいる。
泣いても、そこにいてくれる人がいる。

それが、どれほど大きなことだったのか。

その日、ミサはようやく少しだけわかった。

ミサは、久美子を見た。
百合子を見た。
和枝を見た。

そして、言った。

「三年間、ありがとう」

その言葉を言った瞬間、胸の中にあった何かが、ほどけた。

四人は、また泣いた。
また笑った。
また少し言い合った。

やがて、市電の音が近づいてきた。

帰る時間だった。

けれど、誰もすぐには動かなかった。

校門の向こうには、もう戻らない三年間があった。
校門のこちら側には、それぞれの明日があった。

ミサは、炭で書かれた紙を見た。

百合子、和枝
ありがとう

その横に、久美子の涙の跡が少し落ちていた。
ミサの涙も、きっとどこかについていた。
百合子の涙も、和枝の涙も。

紙は少しにじんでいた。

それでも、字は読めた。

ありがとう。

それだけは、ちゃんと読めた。

卒業式の日、三年間で一番派手な喧嘩をするはずだった作戦は、失敗した。

喧嘩のふりなど、もういらなかった。
四人には、ふりをしなくても伝わるものがあった。

泣いて、怒って、笑って、抱き合って。
それで十分だった。

ずっと後になって、九十歳になったミサさんは言った。

「女子校時代が一番楽しかったですね」

戦争の時代は、嫌な時代だった。
貧しくて、ひもじくて、楽しいことなどなかった。

けれど、そのあとに、こんな日があった。

焼けた町のあとに、市電の音があった。
赤い光のあとに、春の校門があった。

だからミサさんは、少し恥ずかしそうに、けれどはっきりと言ったのだ。

女子校時代が一番楽しかった、と。 


序章 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 最終章


この作品は、実際のインタビューもとに、小説として再構成したものです。登場人物の心情や会話には、読みやすくするための創作表現を含んでいます。