宍道湖の夕日と、あの日の花火

出発 No.03(No.02)

家の中は、いつもより静かだった。

母は台所で、何かを片づけていた。
茶碗の触れ合う音が、いつもより小さく聞こえた。
父は居間に座り、新聞を広げていたが、目は文字を追っていなかった。

マエの荷物は、もうだいたいまとまっていた。
着替え。
手紙を書くための便箋。
母が持たせてくれた裁縫道具。
友達にもらった小さなお守り。
そして、使い慣れた櫛。

「忘れ物ないか」

父が新聞の向こうから言った。

「たぶん」

「たぶん、では困る」

いつも通りの言い方だった。
けれど、その声は少しだけ低かった。

マエは返事をしようとして、やめた。
軽く言い返せば、いつもの親子になれる。
けれど、その夜は、いつものようにできなかった。

父は新聞を畳んだ。
そして、ゆっくり立ち上がると、縁側の方へ歩いた。

「少し来なさい」

マエは黙ってついて行った。

外は静かだった。
庭の木の枝が、春の夜風に小さく揺れていた。
遠くで犬が一度だけ鳴き、また町は静けさに戻った。

父は縁側に腰を下ろした。
マエも、その隣に座った。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

父は前を向いたまま、ようやく口を開いた。

「大阪へ行くのは、おまえが決めたことだ」

「うん」

「行くからには、ちゃんとやりなさい」

「うん」

「泣き言を言うな、とは言わん」

マエは父の横顔を見た。

父は、庭の暗がりを見つめていた。

「ただ、忘れるな」

父の声が、少しだけ強くなった。

「マエは長女だ」

その言葉に、マエは背筋を伸ばした。

「将来は、必ず松江に帰ってくること」

マエはすぐには返事ができなかった。

大阪へ行くことばかり考えていた。
新しい町。
新しい仕事。
新しい暮らし。
見たことのない人の波。
大きな駅。
明るい店。
知らない世界。

でも父は、その先にある帰る場所の話をしていた。

「必ず、帰ってくること」

父はもう一度言った。

それは命令のようでもあり、願いのようでもあった。
そして、誰にも見せない父の寂しさのようでもあった。

マエは小さく息を吸った。

「わかった」

父は何も言わなかった。

「必ず、帰ってくる」

もう一度、マエは言った。

父は、それで十分だというように、ほんの少しだけうなずいた。

その夜、母はいつもより早く布団を敷いた。

「明日は早いけんね」

そう言って、マエの部屋を出ていこうとしたが、ふと立ち止まった。

「マエ」

「なに?」

「大阪へ行っても、ちゃんと食べるんよ」

マエは笑った。

「それ、みんなに言われる」

「みんな、わかっとるんよ」

母も笑った。
けれど、その目は笑いきれていなかった。

「お母さん」

「ん?」

「大丈夫だよ」

そう言った瞬間、マエは自分の声が少し震えたことに気づいた。

母は何も言わず、布団の端をもう一度整えた。
そして、マエの髪を軽く撫でた。

子どもの頃から、母はこうしてくれた。
熱を出した夜も、学校で泣いて帰った日も、父に叱られてふくれていた夜も。
その手の温かさは、昔と少しも変わらなかった。

「寝なさい」

母はそれだけ言って、部屋を出た。

マエは布団に入った。
けれど、なかなか眠れなかった。

天井を見上げていると、友達の顔が浮かんだ。
宍道湖の夕日が浮かんだ。
花火の光が浮かんだ。
しじみ汁の湯気が浮かんだ。
父の「必ず帰ってくること」という声が、何度も胸の奥で響いた。

泣きそうになった。

けれど、泣かなかった。

今泣いたら、明日の朝まで泣き続けてしまう気がした。

だからマエは、布団の中で目を開けたまま、心の中で何度も言った。

大丈夫。
大丈夫。
私は大丈夫。

翌朝、家の中には早くから音がしていた。

母が台所に立つ音だった。
まな板に包丁が当たる音。
味噌を溶く音。
湯気の立つ音まで聞こえてきそうな、いつもの朝だった。

けれど、マエは布団の中でじっとしていられなかった。

胸の奥が、朝よりも早く目を覚ましていた。

障子の向こうが白く明るくなっている。
鳥の声がする。
どこか遠くで、自転車のベルが鳴った。

マエはがばっと起き上がった。

「ちょっと行ってくる!」

台所の母が振り返る。

「どこへ?」

「すぐ戻る!」

返事になっていない返事をして、マエは髪もそこそこに結び、玄関へ飛び出した。

外へ出ると、朝の空気がまぶしかった。
春の匂いがした。
土の匂い。
草の匂い。
まだ冷たさの残る風。
それに、どこか水の気配が混じっていた。

マエは自転車にまたがった。

そして、走った。

走った。
走った。
走った。

道の端に咲く小さな花が、朝露をつけて光っていた。
畑の土はやわらかく黒く、遠くの山の稜線は、朝日を受けて薄い青に霞んでいた。
屋根瓦には光が乗り、電線には雀が並び、町はまだ完全には目を覚ましていなかった。

けれど、マエだけは違った。

胸の中で、何かがはじけそうだった。

十八歳。
青春真っ只中と言うには、少し遅い年なのかもしれない。
もう子どもではない。
これから働きに出る。
家を離れる。
友達とも、父とも、母とも、毎日会えるわけではなくなる。

それでも、その朝のマエは、どうしようもなく青春の中にいた。

泣きたいほど寂しいのに、笑いたいほど嬉しい。
怖いのに、前へ進みたい。
帰りたい場所があるのに、遠くへ行きたい。

その全部を抱えたまま、ペダルを踏んだ。

風が頬を打った。
スカートの裾が揺れた。
髪がほどけかけた。
息が上がった。
けれど、止まらなかった。

角を曲がる。
坂を下る。
細い道を抜ける。

そして次の瞬間、視界がぱっと開けた。

宍道湖だった。

どでかい湖が、朝の光をいっぱいに受けて、そこに広がっていた。

昨日まで何度も見ていた湖。
子どもの頃から当たり前にあった湖。
夕日が沈み、花火が映り、しじみを育て、マエの毎日をずっと見ていた湖。

その宍道湖が、朝の太陽の下で、まるでマエを見送るように輝いていた。

水面はきらきらと細かく揺れ、遠くの空は淡い金色ににじんでいた。
岸辺の草は風にそよぎ、鳥が水の上を低く飛んだ。
春の光はやさしいのに、まぶしくて、目を開けているのが少しつらいほどだった。

マエは自転車を止めるどころか、そのまま湖に向かって叫んだ。

「いってきまーす!!」

声が朝の湖に飛んでいった。

「大阪で頑張ってきまーす!!」

その声は、思ったより大きく出た。

自分でも驚くくらいだった。

宍道湖に言ったのか。
松江の町に言ったのか。
父に言ったのか。
母に言ったのか。
友達に言ったのか。

それとも、自分自身に言ったのか。

マエにもわからなかった。

ただ、叫ばずにはいられなかった。

その直後だった。

前を見ていなかったマエの自転車は、道の端の草むらに、見事に突っ込んだ。

「きゃっ!」

自転車が傾き、マエの体がふわっと浮いた。

次の瞬間、草の上に転がった。

ごろごろ。
ごろごろ。

春の草が頬に当たった。
土の匂いが鼻先に広がった。
朝露が袖を濡らした。
どこかで鳥が驚いたように飛び立った。

マエはしばらく草むらの中で仰向けになっていた。

空が見えた。

青かった。

雲がゆっくり流れていた。
太陽がまぶしかった。
草の先についた露が、宝石みたいに光っていた。

痛いはずなのに、なぜか笑いがこみ上げてきた。

「何してるんだろ、私」

そう言って、マエは声を出して笑った。

笑いながら、少しだけ涙が出た。

でも、それは悲しい涙だけではなかった。

朝の光がまぶしすぎたから。
宍道湖がきれいすぎたから。
大阪が遠すぎたから。
松江が好きすぎたから。

そして、こんなふうに転がっている自分が、どうしようもなく自分らしかったから。

マエは草の上に寝転んだまま、もう一度、湖の方を見た。

「ちゃんと帰ってくるけんね」

今度は小さな声だった。

父との約束を、湖にも聞かせるように言った。

風が吹いた。
岸辺の草が揺れた。
水面がきらめいた。

宍道湖が返事をしたような気がした。

マエは起き上がり、服についた草を払った。
自転車は少し斜めになって倒れていたが、壊れてはいなかった。

「よし」

そう言って、自転車を起こした。

膝には少し土がついていた。
袖は朝露で濡れていた。
髪も少し乱れていた。

それでも、心は不思議とすっきりしていた。

マエはもう一度、宍道湖を振り返った。

朝の太陽の中で、湖はどこまでも明るかった。

泣くなら、夜でいい。
今は、朝だ。

マエはそう思った。

そして、家へ向かって自転車をこぎ出した。

母の作るしじみ汁の匂いが、きっと家の中で待っている。
父は何も言わずに座っている。
そのあと、自分は大阪へ行く。

でも、もう大丈夫だった。

マエは、松江の朝に、ちゃんと「いってきます」を言えたのだから。

食卓には、しじみ汁があった。

「今日もしじみ?」

マエがわざと明るく言うと、母は少し笑った。

「最後みたいに言わんといて」

「最後じゃないよ」

マエは椀を手に取った。

「また食べに帰ってくるし」

父は黙って箸を取った。

母も黙っていた。

その沈黙が、かえって優しかった。

食事が終わると、母は弁当を包み、マエの荷物をもう一度確かめた。
父は玄関の近くで、腕を組んで立っていた。

「駅まで行かんの?」

マエは、わざと軽く聞いた。

父は少し間を置いてから言った。

「仕事がある」

その答えは、予想していた通りだった。

「そっか」

マエは笑った。

父は駅には来ない。
きっと来ないだろうと、マエは思っていた。

来たら、父は困る。
母も困る。
そして何より、マエ自身が困る。

父がホームに立っている姿を見たら、きっと泣いてしまう。
父も、それをわかっていたのかもしれない。

「行ってきます」

マエは玄関で靴を履いた。

母が荷物を持ち、父はその場に立ったままだった。

「体に気をつけろ」

父が言った。

「うん」

「人をよく見なさい」

「うん」

「困ったら、すぐ知らせなさい」

「うん」

父はそこで言葉を切った。
そして、少しだけ視線を落としてから言った。

「約束、忘れるな」

マエは笑顔でうなずいた。

「忘れない」

父はそれ以上、何も言わなかった。

母とマエは家を出た。

角を曲がる時、マエは振り返らなかった。
振り返ったら、父がまだ玄関先に立っている気がした。
それを見たら、もう歩けなくなる気がした。

駅へ向かう道には、朝の光が差していた。
町はいつも通り動き始めていた。
店の戸を開ける音。
自転車のベル。
遠くから聞こえる人の声。

でも、マエにはその全部が、遠い場所から聞こえてくるようだった。

駅には、友達が来ていた。

和子。
ミツコ。
サチコ。
それから、学校で仲のよかった子たちも何人か。

「マエ!」

誰かが名前を呼んだ。

マエはその声を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。

でも、泣かなかった。

むしろ、大きく手を振った。

「来てくれたんだ!」

「当たり前でしょ」

和子は笑っていたが、目が赤かった。

ミツコはハンカチを握っていた。
サチコは口を結んで、笑おうとして失敗していた。

母も、少し離れたところで目を伏せていた。

みんな、泣きそうだった。

だからマエは、わざと大きな声を出した。

「ねえ、駅弁って買える?」

友達が一瞬、ぽかんとした。

「今それ?」

「だって、汽車に乗るんだよ。駅弁いるでしょ」

「マエらしいわ」

和子が笑った。
その笑い声は少し震えていた。

「おにぎり持たせてもらったんじゃないの?」

「それはそれ。駅弁は駅弁」

マエは胸を張って言った。

みんなが笑った。

泣きそうな顔のまま笑った。

「写真撮ろう!」

マエは急に言った。

「今?」

「今に決まってるでしょ。大阪へ行く前の顔、残しとかないと」

友達の一人が、家から借りてきたカメラを取り出した。
みんなでホームの端に集まった。

「もっと寄って」

「マエ、真ん中」

「いや、私が真ん中は恥ずかしい」

「今日くらい真ん中でいいでしょ」

マエは笑いながら、みんなの真ん中に立った。

母も呼ばれた。

「お母さんも入って」

「私はええよ」

「だめ。入って」

母は少し照れながら、マエの横に立った。

シャッターが切られる瞬間、マエは思いきり笑った。
誰よりも明るく、誰よりも楽しそうに。

でも、その笑顔を見て、友達は余計にわかった。

マエは泣かないようにしている。
自分が泣いたら、涙が止まらなくなると知っている。
だから、わざと笑っている。

母も、それをわかっていた。

列車がホームに入ってきた。

大きな音を立てて、ゆっくりと止まる。
風が動き、マエの髪が少し揺れた。

「来たね」

誰かが言った。

その一言で、急に時間が進み始めた。

荷物を持ち、マエは列車に乗った。
窓際の席に座ると、友達と母の顔が見えた。

「手紙書いてよ!」

「書く!」

「大阪のこと、教えてよ!」

「うん!」

「食べすぎないでよ!」

「それは無理!」

みんなが笑った。

母は笑っていた。
けれど、目の端が濡れていた。

マエは窓を開けた。

「お母さん」

「なに?」

「駅弁、やっぱり買えばよかった」

母は一瞬だけ驚き、それから涙をこらえるように笑った。

「もう、あんたは最後までそれやね」

「大阪着いたら何食べようかな」

「ちゃんと仕事のこと考えなさい」

「考える。食べながら」

友達がまた笑った。

その笑い声の中で、発車のベルが鳴った。

列車がゆっくり動き出す。

「マエ!」

和子が手を振った。

「元気でね!」

ミツコが泣きながら叫んだ。

サチコは何も言えず、ただ何度も手を振っていた。

母も、両手で小さく手を振っていた。

マエは窓から身を乗り出すようにして、笑顔で手を振った。

「行ってきます!」

声は明るかった。

けれど、列車がホームを離れ、友達の顔が小さくなっていくにつれて、マエの喉の奥が熱くなった。

泣いたらだめ。
今はまだだめ。

そう思って、マエはさらに大きく手を振った。

ホームが遠ざかる。
母の姿が小さくなる。
友達の姿が、線のようになる。

やがて駅が見えなくなった。

その瞬間、マエは窓を閉めた。

そして、膝の上のカバンをぎゅっと抱いた。

その時、カバンの内側に、見慣れない封筒が入っていることに気づいた。

白い封筒だった。

マエの名前が、母の字で書かれていた。

中には手紙と、きれいに折られたお金が入っていた。

マエは息を止めた。

お母さん。

封筒を持つ手が震えた。

手紙には、短い言葉が並んでいた。

ちゃんと食べること。
無理をしすぎないこと。
困ったら帰ってくること。
けれど、決めた道なら、胸を張って歩くこと。

そして最後に、こう書いてあった。

松江は、いつでもマエの帰る場所です。

マエは手紙を胸に当てた。

その頃、家では父が、いつもと同じように仕事へ出る準備をしていた。

母が封筒をカバンに入れたことを、父は知っていた。
昨夜、母がそっとお金を包んでいたことも知っていた。
けれど、何も言わなかった。

朝も知らないふりをした。

「甘やかすな」と言うこともできた。
「わしからも入れておけ」と言うこともできた。

けれど父は、黙っていた。

母のやさしさを止めなかった。
そして、自分の寂しさも見せなかった。

マエは列車の中で、そのことをまだ知らなかった。

列車は松江を離れていく。

窓の外には、春の田んぼが広がっていた。
山の稜線が遠くなり、見慣れた町の景色が少しずつ過去になっていく。

マエは涙を袖で押さえた。

一粒だけ、こぼれた。

けれど、すぐに顔を上げた。

泣くのは、もう少しあとにしよう。
今は、大阪へ向かっているのだから。

列車の中は、いろいろな人の声でにぎやかだった。

大きな荷物を持った人。
新聞を読む男の人。
弁当を広げる家族。
子どもをあやす母親。
通路を歩く車掌の声。

マエは窓の外を見ながら、母の手紙をもう一度カバンにしまった。

しばらくすると、向かいの席に座っていた若い男が、マエの方をちらちら見始めた。

大阪へ近づくにつれて、車内の言葉も少しずつ変わっていった。
早口で、勢いがあり、遠慮のない響きが混じる。

その若い男も、そんな話し方だった。

「姉ちゃん、ひとりで大阪行くんか」

マエは少し身を固くした。

「はい」

「へえ。松江からか。えらい遠いとこから来るんやな」

男はにやにや笑った。

「大阪は怖いで。何も知らん顔してたら、すぐ迷子や」

マエは返事に困った。

知らない男の人に声をかけられること自体、あまり慣れていなかった。
どう答えればいいのかもわからない。

男は調子に乗ったように、少し身を乗り出した。

「着いたら案内したろか」

その時だった。

通路の向こうから、大きな風呂敷包みを抱えた年配の女の人がやって来た。

丸い顔で、目がよく動く。
いかにも元気そうな人だった。
風呂敷の中には、何が入っているのかわからないが、かなり大きい。

その女の人は、男の言葉を聞くなり、ぴたりと足を止めた。

「ちょっと、あんた」

車内の空気が止まった。

若い男が振り返る。

「なんや、おばちゃん」

「なんや、やない」

女の人は風呂敷を抱え直し、男を真正面から見た。

「若い娘さんがひとりで不安そうに座っとるのに、何を調子に乗って声かけてるんや」

男は少し笑った。

「別に、案内したろ思ただけやん」

「案内は駅員さんがするわ」

ぴしゃりと言った。

周りの乗客が、少しだけ笑った。

男は気まずそうに顔をそらした。

「大阪の男がみんなそんなやと思われたら、こっちが迷惑や。座っとき」

女の人の声は大きかったが、どこか温かかった。
若い男は小さく舌打ちしながら、席に深く座り直した。

女の人はマエの隣にどかっと腰を下ろした。

「大丈夫か、あんた」

マエは慌てて頭を下げた。

「ありがとうございます」

「ええの、ええの。大阪はな、怖い人もおるけど、怖い人を怒る人もちゃんとおる」

女の人は、にっこり笑った。

その笑顔を見て、マエの肩の力が少し抜けた。

「ひとりで大阪か」

「はい」

「えらいなあ。仕事か」

「はい。これから大阪で働きます」

「そうか。ほな、よう食べなあかん」

マエは思わず笑った。

「それ、今日何回も言われました」

「そら言われるわ。食べへんかったら、元気も出ん。大阪は元気な人が多いからな。負けんように、まず食べることや」

女の人は風呂敷をほどき、中から包みを一つ取り出した。

「これ、食べ」

「え、でも」

「ええから。遠慮したら負けや」

中には、丸い餅のような菓子が入っていた。

マエは両手で受け取った。

「ありがとうございます」

ひと口食べると、甘かった。
母の手紙を読んだあとだったせいか、その甘さが胸にしみた。

女の人は窓の外を見ながら言った。

「大阪に着いたら、人の多さにびっくりするで」

「そんなに多いですか」

「多い。声も大きい。歩くのも早い。最初は何が何やらわからんと思う」

「はい」

「でもな」

女の人はマエの方を見た。

「帰る場所がある子は強い」

マエは目を上げた。

「どこから来たかを忘れんかったら、大丈夫や」

その言葉に、父の声が重なった。

必ず松江に帰ってくること。

マエは菓子を持ったまま、小さくうなずいた。

列車はさらに大阪へ近づいていった。

窓の外の景色が変わっていく。
田んぼが少なくなり、家が増え、工場の煙突が見え、線路の数が増えていった。
列車と列車が並び、音が重なり、町の気配が濃くなっていく。

マエは窓に顔を近づけた。

「すごい……」

思わず声が漏れた。

女の人が笑った。

「大阪や」

その一言だけで、胸がどきどきした。

もうすぐ着く。

友達と夕日を見ながら話していた大阪。
宍道湖の花火の夜に、夢みたいに語っていた大阪。
怖くて、まぶしくて、遠かった大阪。

その町が、もう目の前にあった。

マエはカバンの中の手紙にそっと触れた。
母の字。
父との約束。
友達の笑顔。
宍道湖の夕日。
大きなしじみ。
花火の光。

全部を置いてきたわけではなかった。

全部を持って、ここまで来たのだと思った。

列車がゆっくり速度を落とした。

ホームの明かりが近づく。
人の声が押し寄せる。
アナウンスが響く。
知らない町の匂いが、開いた窓から入ってくる。

マエは背筋を伸ばした。

泣くのは、もう少し先でいい。
今は、ちゃんと前を向こう。

列車が大阪の駅に着いた。

マエはカバンを抱え、立ち上がった。

十八歳の春。
松江の娘は、母の手紙と父との約束を胸に、
初めて大阪のホームへ足を下ろそうとしていた。


花火 No.02 (No.01)

花火が終わり、人の流れがゆっくりと駅の方へ動き始めた。

夜空に残る火薬の匂いが、まだかすかに風に混じっていた。

湖畔には余韻を惜しむように立ち止まる人たちの姿があり、誰もが少しだけ名残惜しそうだった。

「じゃあね」

「手紙書いてよ」

「忘れんでよ」

友達は笑いながらそう言ったが、その笑顔の奥には寂しさが滲んでいた。

マエも笑ってうなずく。

けれど、何度も振り返って手を振る友達の姿を見ているうちに、胸の奥がじんわりと熱くなった。

宍道湖の水面には、さっきまで空を彩っていた花火の光の名残がまだ揺れているように見えた。

湖から吹く風は心地よく、夏の終わりを少しだけ予感させる涼しさを含んでいた。

家へ向かう道は、いつも歩いているはずなのに、その夜はどこか違って見えた。

商店の軒先から漏れる灯り。

遠くから聞こえる笑い声。

祭り帰りの家族連れ。

浴衣の裾を気にしながら歩く女の子。

見慣れた町の景色が、一つひとつ目に焼き付いていく。

大阪へ行く日が近づいているからだろうか。

何気ない風景まで愛おしく感じられた。

やがて家の近くまで来た。

角を曲がれば家へ続く細い道がある。

その手前には、近所のばあちゃんがいつも座っている古い椅子が置かれていた。

マエは立ち止まった。

そして何も考えず、その椅子に腰を下ろした。

昔からそうだった。

父親に怒られた時。

テストの成績が悪かった時。

何かお願い事をして断られた時。

隣の家の男の子を泣かせてしまった時。

何かあるたびに、マエはこの椅子に座った。

そして一人でぶつぶつと独り言を言い始める。

内容は毎回違う。

反省だったり、言い訳だったり、夢の話だったり。

自分でも何を話しているのかわからなくなることもあった。

ただ、ここに座ると頭の中が整理できた。

本人は隠しているつもりだったが、その癖は近所中に知られていた。

「ああ、またマエが椅子に座っとる」

そんなふうに思われていた。

もちろん家族も知っている。

この日もマエは椅子に座り、誰に聞かせるでもなく小さな声で話し始めた。

「大阪かあ……」

「ほんとに行くんだなあ……」

「みんな元気でおるかなあ……」

花火のこと。

友達のこと。

父のこと。

母のこと。

思いつくままに言葉が口からこぼれていく。

しばらくそうしてから立ち上がり、家へ向かった。

玄関を開けると、台所から出汁の香りが漂ってきた。

「おかえり」

母が顔を上げる。

その声はいつもと変わらない。

けれど、マエには少しだけ優しく聞こえた。

「ただいま」

靴を脱ぎながら答えると、母は安心したように小さく笑った。

そして何気ない顔で言った。

「今日は長かったねえ」

「なにが?」

「椅子」

マエは思わず固まった。

母はくすっと笑う。

「またぶつぶつ言っとったでしょ」

「聞こえとった?」

「聞こえんでもわかるわ」

母は慣れたように言った。

「昔から変わらんねえ」

恥ずかしくなったマエは頭をかいた。

居間では父が新聞を広げていた。

だが、ページはしばらく前からめくられていないようだった。

マエが入ってくると、父は新聞の上からちらりと視線を向ける。

「遅かったな」

「人が多かったから」

それだけの会話だった。

それでも、どこかほっとする空気がそこにはあった。

食卓には湯気の立つしじみ汁が並び、焼きたての鯵の香ばしい匂いが部屋に広がっていた。

母はいつも通りにご飯をよそい、父は黙って箸を取る。

いつもと同じ夜。

けれど、もうすぐ離れると思うと、その当たり前が特別なものに思えた。

「花火、どうだった?」

母が尋ねる。

「きれいだった」

そう答えると、母は満足そうにうなずいた。

父も黙ったまま耳を傾けている。

マエは友達と見た花火のことや、人の多さのことをぽつぽつと話した。

母は相づちを打ちながら聞き、父は時折「そうか」と短く返した。

その何気ない時間が、不思議なくらい心地よかった。

食事が終わると、母は食器を片付け始めた。

マエも立ち上がって手伝おうとすると、

「今日はいいよ」

と母が言った。

「なんで?」

「たまには座っときなさい」

そう言って笑う。

その笑顔を見ていると、胸の奥が少しだけ締めつけられた。

夜が更けるにつれ、家の中は静かになっていった。

窓の外では虫の声が絶え間なく続いている。

マエは縁側に腰を下ろした。

庭には月明かりが落ち、植木の影が静かに揺れていた。

しばらくすると父もやって来た。

缶のお茶を二本持っている。

一本を無言で差し出した。

「ありがとう」

父は隣に腰を下ろした。

二人ともすぐには話さなかった。

遠くで電車の走る音が聞こえる。

夜風が頬をなでる。

そんな静かな時間がしばらく続いた。

やがて父がぽつりと言った。

「もうすぐだな」

マエは缶を握ったままうなずく。

「うん」

父は空を見上げた。

「大阪は人が多いぞ」

「らしいね」

「迷うなよ」

その言葉に思わず笑うと、父も少しだけ口元を緩めた。

それからまた沈黙が訪れる。

けれど気まずさはなかった。

父なりに何かを伝えようとしていることがわかったからだ。

しばらくして父はゆっくりと言った。

「しんどくなったら帰ってこい」

マエは顔を上げた。

父は相変わらず空を見ていた。

「無理する必要はない」

その声は静かだった。

けれど、どんな励ましよりも温かかった。

マエは小さくうなずく。

「でも、頑張ってみたい」

父はその言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。

「そうか」

それだけだった。

けれど、その一言には認めてくれたような響きがあった。

夜風が二人の間を通り抜ける。

遠くの空には、花火の名残などもう残っていない。

それでもマエの胸の中には、あの夜の光がまだ静かに灯っていた。

その後も大阪へ行く日まで、特別なことは何もなかった。

母は毎朝変わらず朝食を作り、父は仕事へ向かった。

マエも荷物をまとめたり、友達と会ったりしながら日々を過ごした。

けれど、何気ない毎日の中に、家族の優しさが以前よりもはっきりと感じられた。

母は洗濯物を畳みながら「向こうは暑いかねえ」とつぶやき、

父は夕食の席で「体だけは気をつけろ」と言った。

どれも短い言葉だった。

けれど、その一つひとつが胸に残った。

そして何か考え込むことがあると、マエは相変わらずあの角の椅子に座った。

近所の人は見かけるたびに笑った。

「また考え事か」

「大阪行く準備か」

そんな声をかけられることもあった。

母は窓からその姿を見つけると、

「ああ、また始まった」

と笑った。

マエにとっては昔から変わらない場所だった。

嬉しい時も。

悲しい時も。

迷った時も。

あの椅子に座って独り言を言えば、不思議と少しだけ前を向けた。

やがて出発の日が近づいていった。


宍道湖の夕日は、日本一きれいだ。No.001

湖の水面が、きらきら光っていた。
遠くで、自転車のベルが鳴った。
まだ道には土の匂いが残っていて、家々の軒先には、夕飯の支度の音がしていた。
どこかの家から、ラジオの音が小さく流れていた。

新しい音楽が、日本に入り始めていた。
少し大人っぽくて、少し遠い国の風が吹くような音楽が流れている。
ボサノバという名前を、エミコたちはまだはっきりとは知らなかったかもしれない。
でも、その柔らかいリズムには、夕暮れの宍道湖に似た、ゆっくりとした揺れがあった。

「行ってみたい」

マエは、やっと言った。

「大阪へ?」

「うん」

「帰ってくる?」

サチコが聞いた。

マエは笑った。

「そんなの、行ってみないとわからん」

その言葉を聞いて、三人は少し黙った。

笑っていたのに、急に胸が苦しくなることがある。
それが青春だった。

「大阪かあ」

隣に座っていた友達のミツコが、膝を抱えながら言った。

「人が多いんやろうね」

「電車もいっぱい走っとるんじゃない?」

「お店も、夜まで明るいんかな」

三人目の友達、サチコが、少し得意そうに言った。

「うちの親戚が言っとった。大阪は、何でもあるって」

「何でもって、何?」

マエが聞くと、サチコは少し考えてから言った。

「服とか、靴とか、喫茶店とか、映画館とか」

「食べ物は?」

マエがすぐに聞いた。

ミツコが吹き出した。

「また食べ物」

「だって、大事じゃない」

マエは真面目な顔で言った。

三人は声を合わせて笑った。

マエは食いしん坊だった。
学校の帰りに、誰かが小さなお菓子を持っていたら、必ず最初に気づく。
お弁当の話になると、急に目が輝く。
家でしじみの味噌汁が出ると、「今日のしじみ、大きいね」と誰よりも先に言う。

宍道湖のしじみは大きかった。
それは、マエたちにとっては特別なものではなく、毎日の食卓に普通にあるものだった。

朝、湯気の立つ味噌汁の中に、黒く光るしじみが入っている。
母親が「ちゃんと食べなさい」と言う。
マエは「わかっとる」と言いながら、汁をすすり、しじみの身を小さな箸でつまむ。

そんな日々が、ずっと続くと思っていた。

でも、十八歳の夏は、少し違っていた。

「ほんまに行くの?」

ミツコが、夕日を見ながら聞いた。

マエは、すぐには答えなかった。

「大阪へ行ったら、私ら、どうなるんだろうね」

マエは、宍道湖の夕日を見ながら、ぽつりと言った。

湖の向こうで、太陽がゆっくり沈もうとしていた。
水面は金色に光り、風が吹くたびに、その光が細かく揺れた。

その景色は、毎日のように見ていた。
学校の帰り道にも、買い物の途中にも、友達と寄り道した日にも。
あまりにも当たり前すぎて、特別だと思ったことなどなかった。

けれど、今夜だけは違った。

花火大会の日だった。

湖のまわりには、いつもよりたくさんの人が集まっていた。
浴衣姿の女の子。
うちわを持つ子ども。
下駄の音。
屋台からただよう、甘いソースの匂い。

「どうなるって、そりゃ、都会の女になるんじゃない?」

隣にいた友達の和子が、笑いながら言った。

「都会の女って、どんなの?」

「知らんけど、歩くのが速いとか」

「それだけ?」

「あと、喫茶店で迷わずコーヒー頼むとか」

その言葉に、みんなが笑った。

マエも笑った。
でも、胸の奥は少しだけ静かだった。

十八歳の夏。
学生時代の終わりが、少しずつ近づいていた。

松江で過ごした毎日は、にぎやかだった。
朝は、まだ涼しいうちに家を出る。
道で友達と会えば、そのまま一緒に学校へ向かう。
帰り道には、誰かが必ず「ちょっと寄って帰ろう」と言い出す。

お腹がすけば、みんなで何かを分け合った。
食い気だけは、誰にも負けなかった。

「マエ、また食べてる」

「だって、お腹すくんだもん」

「さっき食べたばっかりでしょ」

「さっきは、さっき。今は、今」

そんなことを言いながら、笑ってばかりいた。

宍道湖のしじみは大きかった。
それも、マエにとっては特別でも何でもなかった。
家の食卓にしじみ汁が出ることは、当たり前だった。
湯気の向こうに、母の声があり、家族の会話があり、朝のにおいがあった。

「都会へ行ったら、こんな大きなしじみ、ないかもしれないよ」

友達の一人が言った。

「え、本当に?」

マエは少し本気で驚いた。

「大阪って、何でもあるんじゃないの?」

「何でもあるけど、宍道湖はないでしょ」

その一言で、みんな少し黙った。

宍道湖は、そこにあるのが当たり前だった。
夕日がきれいなのも、しじみが大きいのも、湖の風が髪を揺らすのも、全部、毎日の中にあった。

でも、離れるかもしれないと思った瞬間、
その当たり前が、急にまぶしく見えた。

「日本一、夕日がきれいだって言うよね」

マエが言った。

「うん」

「でも私、毎日見すぎて、ちゃんと見てなかったかもしれない」

和子が、夕日に目を細めた。

「じゃあ、今日はちゃんと見よう」

その言葉に、マエはうなずいた。

六十五年前の松江。
今と同じように、宍道湖には夕日が沈んでいた。
けれど、町の空気は少し違っていた。

道には今ほど車は多くなく、
人の声がよく聞こえた。
店先には裸電球の明かりがともり、
浴衣のすそを押さえながら歩く女の子たちの姿があった。

湖畔に吹く風は、少しだけ湿っていて、
夏の終わりを連れてくるようだった。

「大阪へ行ったらさ」

和子が言った。

「うん」

「手紙、書こうね」

「当たり前じゃない」

「でも、忙しくなったら忘れるかもしれない」

「忘れないよ」

マエは、すぐに答えた。

「絶対?」

「絶対」

そう言いながらも、マエは少し不安だった。

大阪。
それは、まだ見ぬ大きな町だった。
人が多くて、電車がたくさん走っていて、言葉も早くて、建物も高い。
想像するだけで、胸が高鳴った。

でも同時に、怖くもあった。

ここには、友達がいる。
湖がある。
夕日がある。
しじみ汁の朝がある。
花火大会を一緒に待つ時間がある。

それら全部を置いて、違う町へ行く。

「ねえ、マエ」

「なに?」

「大阪へ行っても、今日のこと覚えててね」

マエは、友達の横顔を見た。

夕日がその頬を赤く染めていた。
十八歳の顔だった。
大人になりかけているのに、まだ子どものままでいたい顔だった。

「覚えてるよ」

マエは言った。

「今日の夕日も、しじみの話も、みんなで笑ったことも、全部」

その時だった。

湖の向こうから、最初の花火が上がった。

ひゅるるるる、という音が夜空へ伸びて、
次の瞬間、大きな光が開いた。

「わあっ」

みんなが一斉に声を上げた。

花火は、空だけでなく、湖にも咲いた。
宍道湖の水面に映った光が、もう一つの花火になった。
右を見ても、左を見ても、前を見ても、光があった。

まるで、三百六十度、全部が花火だった。

湖を囲む町の明かり。
夜空に広がる火の花。
水面に揺れる光。
友達の笑い声。
屋台のにおい。
遠くから聞こえる拍手。

マエは息をのんだ。

こんなにきれいだったのか。
自分たちは、こんな場所で青春を過ごしていたのか。

毎日見ていた宍道湖が、
その夜だけは、まるで別れを惜しむように輝いていた。

「マエ!」

和子が叫んだ。

「大阪へ行っても、負けちゃだめよ!」

花火の音にかき消されそうになりながら、マエは笑った。

「負けない!」

「いっぱい食べるんだよ!」

「そこ?」

「マエは食い気がないと、マエじゃないから!」

みんながまた笑った。

マエも、涙が出そうになるほど笑った。

空に大きな花火が開いた。
赤、青、金、白。
その光が、友達の顔を一瞬ずつ照らしていく。

その顔を、マエは忘れまいと思った。

十八歳の夏。
松江の宍道湖。
日本一きれいな夕日。
大きなしじみ。
花火大会の夜。
そして、大阪へ行く夢を語り合った友達。

それは、何か特別な事件があった日ではなかった。
けれど、人生の中で何度も思い出すことになる、特別な一日だった。

花火が終わっても、しばらく誰も立ち上がらなかった。

湖の上には、煙がゆっくり流れていた。
夜風が、火薬のにおいを少しだけ運んできた。

「帰ろうか」

誰かが言った。

でも、マエはもう一度だけ、暗くなった宍道湖を見た。

夕日は沈んでいた。
花火も終わった。
それでも湖は、静かにそこにあった。

六十五年たっても、きっとこの湖は変わらない。
夕日は、また明日も沈む。
しじみは、また朝の食卓にのぼる。
誰かの青春が、またこの湖のそばで始まる。

マエは心の中で、そっとつぶやいた。

私はここで、青春を過ごした。
この湖のそばで、友達と笑って、夢を見て、大人になろうとしていた。そしてその夜、
宍道湖に映った花火は、
マエの十八歳を、いつまでも照らし続ける光になった。