うちは大阪のおばちゃんちゃうし

No.02(01の続き)

― ピンヒールの頃 ―

商店街の午後は、少しだけ気がゆるむ。

午前中の買い物客がひと段落し、魚屋の前には水をまいた匂いが残っている。八百屋の店先では、少し疲れた大根が並び、惣菜屋からは揚げたてのコロッケの匂いが風に乗って流れていた。

美智子は、いつものように買い物袋を片手に歩いていた。

白いブラウスに薄い藤色のカーディガン。首には小さなスカーフを巻いている。本人としては、今日もかなり品良くまとまっているつもりだった。

「今日のうちは、ちょっと京都寄りやわ」

誰に言うでもなく、そう思ったその時だった。

商店街の端のベンチで、若い奥さんが赤ちゃんを抱いたまま困り果てた顔をしていた。

赤ちゃんは、顔を真っ赤にして泣いている。

奥さんは、片手に買い物袋、もう片方の腕に赤ちゃん。肩には大きなマザーズバッグ。髪は少し乱れ、目の下にはうっすら疲れが見えた。

美智子は一度、通り過ぎかけた。

けれど、三歩で止まった。

「……あかん。あの顔、見たらあかんやつや」

美智子はくるりと戻った。

「大丈夫?」

若い奥さんは、びくっと顔を上げた。

「すみません、大丈夫です。ちょっと泣いちゃって」

「ちょっとちゃうな。これは本気泣きやな」

赤ちゃんは、さらに声を張り上げた。

若い奥さんは、申し訳なさそうに周りを見た。

「すみません、うるさくて」

「赤ちゃんが泣くのは仕事やん。謝らんでええの。泣かへん赤ちゃんのほうが心配やわ」

美智子はそう言いながら、買い物袋をベンチの横に置いた。

「荷物、ちょっと持ったげる。あんたは赤ちゃんだけ抱き」

「でも……」

「でも、ちゃう。今は指示に従いなさい」

ああ若い奥さんは、戸惑いながらも美智子に買い物袋を渡した。

美智子は慣れた手つきで、奥さんの肩からずり落ちそうになっていたバッグを直し、赤ちゃんの足元のタオルを少し整えた。

「暑いんかな。お腹かな。眠いんかな。赤ちゃんいうのは、言葉がないぶん、全部泣いて知らせるから忙しいねん」

若い奥さんは小さく笑った。

「ほんとに、毎日わからなくて」

「わからんで普通。わかった顔してる人も、だいたいわかってへん」

美智子がそう言うと、若い奥さんの肩から少し力が抜けた。

赤ちゃんは、まだ泣いていた。

美智子は一瞬、抱っこを代わろうかと思った。けれど、若い奥さんの手が赤ちゃんをぎゅっと抱きしめているのを見て、やめた。

「お母さんの抱っこでええ。あんたの声が一番ええねん」

「私のですか?」

「そらそうやん。この子、毎日あんたの声聞いてるんやから」

美智子は少し声を落とした。

「泣いててもな、ちゃんと聞いてるよ。お母さんが焦ってる声も、困ってる声も、頑張ってる声も」

若い奥さんは、赤ちゃんの背中をゆっくり叩いた。

「大丈夫、大丈夫」

さっきまで少し震えていた声が、少しだけ落ち着いた。

赤ちゃんの泣き声が、ほんの少し小さくなった。

「そうそう。ええ感じやん」

美智子は、まるで実況中継でもするように言った。

「今、赤ちゃん、考えてるで。泣き続けるか、ちょっと休むか」

若い奥さんが笑った。

「そんなこと考えてますか?」

「考えてる。赤ちゃんも忙しいねん。泣くにも体力いるしな」

しばらくすると、赤ちゃんの泣き声は、しゃくり上げるような小さな声に変わった。

そして、若い奥さんの胸に顔をうずめるようにして、ようやく静かになった。

若い奥さんは、ほっと息をついた。

「泣き止んだ……」

「ほらな。お母さんの勝ち」

「勝ちなんですか」

「そや。育児はな、毎日ちっちゃい勝ちを拾っていくもんやねん」

若い奥さんは、赤ちゃんの頭を見つめたまま、少し笑った。

美智子はベンチの横に腰を下ろした。

「育休中?」

「はい。今、一年休んでて。でも、もうすぐ復帰のことも考えないといけなくて」

「ああ、それは頭の中が忙しい時期やな」

「仕事に戻りたい気持ちもあるんです。でも、ちゃんとやれるかなって。子どもが熱を出したらどうしようとか、職場に迷惑をかけるんじゃないかとか」

美智子は、うんうんとうなずいた。

うなずきながら、バッグを開けた。

財布、ハンカチ、エコバッグ、飴ちゃん、軍手。

そして、なぜか小さな扇子。

「どうぞ。ちょっと仰ぎ」

若い奥さんは思わず笑った。

「何でも出てきますね」

「失礼な。必要なものしか入ってへん」

「軍手もですか?」

「軍手は必需品やん」

「普通は持ってないです」

「普通って何やの。困った時に持ってる人が一人おったら、それでええねん」

美智子は、飴ちゃんをひとつ取り出した。

「はい。お母さん用」

「ありがとうございます」

「赤ちゃんにはまだ早いからな。あんたが食べ」

若い奥さんは飴を受け取りながら、少し照れたように言った。

「なんか、大阪のおばちゃんみたいですね」

美智子の手が止まった。

「ちゃうし」

即答だった。

「うちは大阪のおばちゃんちゃうし。京都寄りやし」

若い奥さんは、声を出して笑った。

「すみません」

「謝らんでええけど、そこは間違えんといて」

そう言いながら、美智子も少し笑っていた。

若い奥さんが赤ちゃんを見ながら言った。

「でも、すごいですね。なんか、落ち着いてて」

「落ち着いてるように見えるだけやで。昔はうちも、よう焦ってた」

「美智子さんもですか?」

「そらそうよ」

美智子は、少し遠くを見るように商店街の先を見た。

「うちかて、昔は毎日走ってたんよ。ピンヒール履いて、商社のビルの中をカツカツ歩いてな」

若い奥さんは目を丸くした。

「商社ですか?」

「大手商社。言うても、若い頃の話やけどな」

美智子は、少しだけ背筋を伸ばした。

「その頃のうちは、なかなかやったで。髪もちゃんと巻いて、スーツ着て、ブランドのバッグ持って。仕事もプライベートも、前向きに楽しんでました、って感じや」

「かっこいいですね」

「せやろ?」

美智子はすぐに得意そうな顔をした。

けれど、その顔はすぐに少し照れたようにゆるんだ。

「まあ、本人は最先端のつもりやっただけかもしれんけど」

昭和五十年代後半の大阪。

美智子がまだ二十代だった頃、街は今よりずっと勢いがあった。

駅前には人があふれ、商店街には朝から晩まで声が飛び交っていた。会社帰りのサラリーマンたちは足早に歩き、喫茶店では煙草の煙の向こうで、誰かが仕事の話をしていた。

美智子は、大手商社の大阪支社に勤めていた。

グレーのスーツに白いブラウス。

足元はピンヒール。

肩には、お気に入りのブランドバッグ。

流行りのものは、ひと通り知っていた。

北浜で働く女性として、服装も、言葉づかいも、どこかきちんとしていたかった。

雑誌に載っていた店も、流行っている口紅の色も、新しくできたカフェも、ちゃんと押さえていた。

「藤原さん、今日も決まってるなあ」

朝、会社の入口で男性社員にそう言われると、美智子は少しだけ微笑んだ。

「ありがとうございます」

若い頃の美智子は、東京弁を頑張っていた。

本社が東京だったからだ。

電話の向こうの本社の人と話す時、美智子は少し声を高くして言った。

「はい、藤原でございます。承知いたしました」

受話器を置いた瞬間、隣の先輩が笑った。

「美智子ちゃん、今の誰?」

「私です」

「えらい東京の人みたいになってたで」

「本社の方とお話しする時は、きちんとしませんと」

「“しませんと”言うてる時点で大阪やけどな」

美智子は、むっとした。

「うちは使い分けてるんです」

「便利な言葉やなあ、使い分け」

それでも、美智子は本気だった。

東京の本社に負けたくなかった。

大阪支社だからと軽く見られたくなかった。

女性だからと、補助の仕事だけだと思われたくなかった。

当時、会社の中で女性が任される仕事には、見えない線がいくつもあった。

お茶出し。
電話応対。
書類整理。
男性社員の補助。

もちろん、それも大切な仕事だった。

けれど美智子は、そこだけで終わるつもりはなかった。

数字を覚えた。

取引先の名前を覚えた。

男性社員が会議で話していた内容も、聞こえる範囲で全部頭に入れた。

資料の誤字にも気づいた。

見積もりの数字の違いにも気づいた。

誰より早く出社し、誰より正確に処理した。

電話を取りながら、手元では伝票を書き、隣の机の会話も聞いていた。

「藤原さん、これ昨日の資料どこやった?」

「第二営業部の青いファイルです」

「藤原さん、東京からの返事来てた?」

「十時二十分にありました。課長の机の左側です」

「藤原さん、この数字おかしくない?」

「そこ、一桁違います」

「……ほんまや」

気がつけば、美智子の机の周りには、いつも誰かが来るようになっていた。

仕事を頼みに来る人。

確認に来る人。

ただ話しかけに来る人。

若い男性社員たちは、美智子のことをよく見ていた。

「藤原さん、今度ご飯でも」

「すみません、月末処理がありますので」

「じゃあ、来週」

「来週は棚卸しの準備です」

「再来週は?」

「再来週は、たぶん忙しくなる予定です」

「予定って何やねん」

美智子は笑ってかわした。

男性の人気の的。

本人も、そう思っていないわけではなかった。

けれど、なぜか彼氏ができるのは、いつも後輩のほうだった。

「美智子さん、すみません。実は営業の田中さんとお付き合いすることになって」

後輩が申し訳なさそうに言った時、美智子は笑顔で言った。

「よかったやん。おめでとう」

「怒ってませんか?」

「何で怒るの」

「だって田中さん、美智子さんのこと、よく見てたから」

美智子は、少しだけ間を置いた。

「見てるだけの人は、だいたい見てるだけで終わるねん」

後輩は困ったように笑った。

美智子も笑った。

けれど、その日の帰り、駅のホームで電車を待ちながら、少しだけ思った。

仕事ができる女は、かわいげがないのだろうか。

頼られることと、守られることは、違うのだろうか。

でも、次の瞬間には顔を上げていた。

「まあええわ。うちはうちで忙しいし」

そう言って、ピンヒールのつま先を少し前に出した。

会社には、巨大なコンピューター室があった。

今のように机の上に小さなパソコンがある時代ではない。

ビルの一階の大きな部屋をまるごと使うような、巨大な機械が並んでいた。空調の音が低く鳴り、白い床の上に、何本ものケーブルが走っている。

そこに入る時は、少し特別な気持ちになった。

まるで未来の部屋に入るみたいだった。

端末の前に座る担当者に伝票の内容を渡し、入力の確認をする。時には資料を持って階段を上がり下がりし、営業部とコンピューター室の間を何度も往復した。

ピンヒールで階段を上がるたび、カツン、カツンと音が響いた。

「藤原さん、また走ってる」

「走ってません。急いでるだけです」

「同じや」

「違います。走ると品がなく見えます」

「そのヒールで十分派手やけどな」

美智子は、書類を胸に抱えながら言った。

「これは仕事用です」

「どこがやねん」

「気合いが入ります」

それは本当だった。

ピンヒールは、少し痛かった。

夕方になると足がむくみ、帰りの電車ではつま先がじんじんした。

それでも美智子は履き続けた。

若い自分が、会社という大きな場所で負けないための、細い武器みたいなものだった。

ブランドバッグもそうだった。

本当は、給料から考えれば少し背伸びだった。

けれど、そのバッグを持って会社の入口を通ると、少しだけ自分が大人になった気がした。

「藤原さんって、いつもきれいやね」

後輩にそう言われると、美智子は平気な顔で答えた。

「仕事する時こそ、ちゃんとしとかなあかんのよ」

「美智子さん、東京弁と大阪弁、混ざってます」

「混ざってへん。これは標準語寄りの大阪弁」

「何ですか、それ」

「うち独自のやつ」

そんなふうに笑いながら、美智子は毎日を走っていた。

忙しかった。

悔しいこともあった。

男性社員の会議に呼ばれず、あとで資料だけ作らされたこともあった。

自分が気づいたミスを、別の男性社員の手柄のようにされたこともあった。

それでも、美智子は黙って終わらなかった。

次からは、先に言う。

次からは、資料に自分の名前を残す。

次からは、数字をもっと覚える。

悔しさを、泣き言ではなく仕事に変えるのが、美智子のやり方だった。

ある日の午後。

大阪支社に、東京本社から役員が来た。

社内は朝から少しざわついていた。

男性社員たちはいつもより声が大きく、女性社員たちは応接室の準備に追われていた。

美智子も、お茶を出し、資料をそろえ、会議室の外で控えていた。

その時、会議室の中から声が聞こえた。

「この件、大阪側の数字は誰がまとめたんだ?」

少し沈黙があった。

課長の声がした。

「藤原です」

「藤原?」

「はい。うちの女性社員ですが、かなり細かいところまで見ています」

美智子は、廊下で少し息を止めた。

会議室の扉の向こうで、紙をめくる音がした。

「この資料、東京のものより見やすいな」

美智子の手の中で、お盆がほんの少し傾いた。

慌てて持ち直す。

廊下の先で、先輩社員がにやりと笑っていた。

「美智子ちゃん、聞こえてるで」

「聞こえてません」

「顔に出てる」

「出てません」

「めっちゃ出てる」

美智子は、すました顔で廊下の窓の外を見た。

けれど、胸の奥では何かが小さく跳ねていた。

その日の夕方、課長に呼ばれた。

「藤原くん、ちょっと」

課長室に入ると、課長はいつもより少し真面目な顔をしていた。

窓の向こうには、夕日を受けた山の稜線が、薄く金色ににじんで見えた。

机の上には、東京本社から持ってこられた資料が置かれている。

「今日の役員がな、君のことを気にしていた」

「私ですか」

「ああ。資料の作り方、数字の読み方、かなり評価していた」

美智子は、少しだけ背筋を伸ばした。

「ありがとうございます」

「それでな」

課長はそこで一度、言葉を切った。

窓の外では、大阪の夕方が少しずつ濃くなっていた。ビルの間に沈む光が、机の端を赤く染めている。

「東京本社のほうで、女性社員の新しい配置を考えているらしい」

美智子は、課長の顔を見た。

「新しい配置、ですか」

「まだ正式な話ではない。ただ……」

課長は資料を一枚、机の上でそろえた。

「君の名前が出ている」

部屋の中が、少しだけ静かになった。

美智子の耳には、廊下の電話のベルも、遠くのコピー機の音も、少し遠く聞こえた。

東京。

その言葉は、美智子にとって遠い場所だった。

本社がある場所。

標準語が飛び交う場所。

大阪支社を、少し上から見ているように感じることもある場所。

けれど同時に、いつか見返してやりたいと思っていた場所でもあった。

課長は続けた。

「まだ打診の前段階や。正式に決まったわけではない」

「はい」

「ただ、もし話が来たら、考えてみる価値はあると思う」

美智子は何も言わなかった。

ピンヒールの先が、床の上で少しだけ動いた。

東京に行く。

大阪を離れる。

商店街のざわめきも、いつもの喫茶店も、母の作る夕飯も、友人たちとのおしゃべりも。

全部、少し遠くなる。

けれど、その向こうに何かがあるかもしれない。

自分の力を、もっと大きな場所で試せるかもしれない。

課長は、少し声をやわらげた。

「今日はもう帰りなさい。返事をする話でもないし、誰かに言う話でもない」

「はい」

美智子は頭を下げて、課長室を出た。

廊下に出ると、いつもの会社の音が戻ってきた。

電話のベル。

誰かの笑い声。

書類をそろえる音。

コンピューター室へ続く階段の方から、低い機械音が聞こえる。

美智子は、ゆっくり歩き出した。

カツン。

カツン。

ピンヒールの音が、廊下に響いた。

その音は、いつもより少しだけ大きく聞こえた。

その夜、美智子は会社を出て、駅へ向かった。

大阪の街には、ネオンがともりはじめていた。

人の流れは速く、車のライトが道路を流れていく。

美智子は、ブランドバッグを肩にかけ直した。

「東京、か」

小さくつぶやいてみた。

すると自分の声が、少しよそ行きに聞こえた。

「東京へ行くことになるかもしれません」

そう標準語で言ってみた。

すぐに首をかしげた。

「なんか違うな」

今度は、いつもの声で言った。

「東京行くかもしれへん、てか」

そのほうが、ずっと自分に近かった。

駅前のショーウィンドウに、自分の姿が映っていた。

グレーのスーツ。

白いブラウス。

ピンヒール。

少し背伸びをしたブランドバッグ。

その姿は、自分で思っていたよりもずっと、まっすぐ前を向いていた。

美智子は、ショーウィンドウの中の自分に向かって、少しだけ笑った。

「うち、やれるやろか」

誰も答えなかった。

けれど、足は止まらなかった。

カツン、カツンと音を立てて、美智子は人の流れの中へ歩いていった。

まだ正式な話ではない。

まだ何も始まっていない。

けれどその日、大阪の街の明かりの中で、美智子の人生は、ほんの少しだけ東京の方を向きはじめていた。


京都寄りの大阪。No.01

古い商店街があり、小さな川が流れ、春になると桜が静かに咲く町。

派手ではない。
けれど、毎日の暮らしの中に、ちゃんと季節の匂いがある。

藤原美智子、五十八歳。

朝は少し早く起きる。
台所に立ち、昆布と鰹で丁寧に出汁をひく。

湯気の向こうで、味噌の香りがふわりと広がると、美智子は少しだけ背筋を伸ばす。

お気に入りの白い器にお漬物を盛り、焼き魚を小皿にのせる。

「朝ごはんはな、心を整える時間やし」

そう言いながら、まるで料理番組の先生みたいに箸をそろえる。

服は落ち着いた色合いが好きだった。
黒、紺、薄いグレー、たまに淡い藤色。

百貨店で買った上質なストールをさらりと巻く。
京都の和菓子屋には詳しい。
季節の生菓子を見ると、つい説明したくなる。

「これはな、ただ甘いだけと違うねん。余韻が大事なんよ」

本人は、心の底から思っている。

「うちは大阪のおばちゃんとは違うねん。もっとこう……品良く生きてる感じ?」

けれど。

駅前のスーパーでは、タイムセールの五分前になると、気がつけば最前列にいる。

しかも、ただ前にいるだけではない。
全体の流れを見ている。
店員さんの動きも、値引きシールの貼られる順番も、ちゃんと読んでいる。

「このお豆腐、今日やったら半額やで! 取っとき!」

知らない人にも、自然に声をかける。

「そっちのヨーグルト、賞味期限こっちの方が長いわ」

言われた人は、最初は少し驚く。
けれど次の瞬間には、なぜか笑っている。

美智子の声には、押しつけではない温度があった。
少し大きいけれど、あたたかい。
少し近いけれど、嫌ではない。

帰り道。
小さな川沿いの道で、自転車を押して困っている高校生を見つけた。

チェーンが外れている。

美智子は一度通り過ぎかけた。
けれど、三歩で止まった。

「あかんあかん。そんな顔してたら、こっちまで気になるやん」

高校生が振り向く。

「え、大丈夫です……」

「大丈夫な顔してへん。貸してみ?」

そう言いながら、美智子はバッグを開ける。

財布、ハンカチ、エコバッグ、飴ちゃん。
そして、なぜか軍手。

高校生が目を丸くする。

「なんで軍手持ってるんですか?」

美智子は少し照れたように言った。

「おば……いや、お姉さん、こういう時のために持ってるねん」

チェーンを直す間、美智子の手は慣れていた。

昔、娘が小さかった頃、よく自転車のチェーンが外れた。
塾に遅れる、友達との約束に間に合わないと、娘はよく泣いた。

そのたびに美智子は、手を真っ黒にしながら直した。

「泣かんでええ。動かへんもんは、直したらええだけや」

そう言って、娘の背中を押した。

それから何年もたって、娘はもう家を出た。
台所の椅子は一つ余るようになった。
朝ごはんも、以前より少し静かになった。

けれど美智子のバッグには、今も軍手が入っている。

誰かが困っていた時、すぐに手を出せるように。

チェーンがはまると、高校生の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとうございます!」

「ええよ。次からは慌てんと、まず落ち着き。自転車も人間も、焦ったら余計にこじれるねん」

美智子はそう言って、バッグから飴ちゃんを取り出した。

「はい。これ食べて行き」

高校生は笑った。

「大阪のおばちゃんみたいですね」

その言葉に、美智子はぴたりと止まった。

「ちゃうし」

すぐに言った。

「うちは大阪のおばちゃんちゃうし。京都寄りやし」

高校生はさらに笑った。

近所では、美智子は少し有名だった。

困っている人を見ると放っておけない。
世話焼き。
情報通。
笑い声が大きい。
そして、必ず飴ちゃんを持ち歩いている。

でも、本人だけは認めない。

ある日、娘が久しぶりに帰ってきた。

夕方の台所で、美智子は出汁巻き卵を焼いていた。
娘はその横に立ち、昔と同じように、つまみ食いを狙っている。

「まだ熱いからあかん」

「ちょっとだけ」

「ちょっとだけ言う人ほど、だいたい二切れ食べるねん」

そんなやり取りをしながら、娘はふいに言った。

「お母さんって、めっちゃ品ある大阪のおばちゃんやんな」

美智子は、卵焼き器を持ったまま眉をひそめた。

「違う違う。うちは京都寄りやから」

娘は笑った。

「そこやねん」

「何が?」

「“京都寄り”って言い張るところが、もう完璧な大阪のおばちゃんやねん」

美智子は何か言い返そうとした。

けれど、娘は続けた。

「でもな、私、そういうお母さん好きやで」

美智子の手が、少し止まった。

「スーパーで知らん人に声かけたり、近所の人のこと放っておかれへんかったり、飴ちゃん持ってたり。昔はちょっと恥ずかしいと思ったこともあったけど」

娘は小さく笑った。

「でも、今になって思うねん。あれって全部、誰かをひとりにせえへんためやったんやなって」

台所に、出汁巻き卵の甘い香りが広がっていた。

美智子は何も言わなかった。

ただ、少しだけ目元をやわらかくした。

娘は続けた。

「品があるって、静かにしてることだけと違うんやな。人にちゃんと手を差し出せることも、品なんやと思う」

美智子は、照れくさそうに卵焼きを皿に移した。

「……あんた、口だけは達者になったな」

「お母さん譲りやし」

「そこは似んでよろしい」

そう言いながら、美智子はそっと、娘の皿に一切れ多く卵焼きをのせた。

娘はそれに気づいて、何も言わずに笑った。

春の夕方。

商店街の向こうから、子どもたちの声が聞こえる。
小さな川沿いの桜は、もう散りはじめていた。
花びらが風に乗って、ゆっくり道に落ちていく。

美智子は買い物袋を片手に、いつもの道を歩く。

前から近所の奥さんが、新しい春色のカーディガンを着て歩いてきた。

美智子は、すぐに声をかけた。

「あんた、それ似合うやん! 顔、明るう見えるわ!」

言われた奥さんは、照れながら笑った。

「ほんま?」

「ほんまほんま。うち、こういうの見る目あるねん」

その声が、商店街に明るく響いた。

上品さと人情が混ざった、京都寄りの大阪。

その町には、美智子のような人がいる。

誰かの買い物かごを気にして、
誰かの自転車を直して、
誰かの背中を、何気ない一言で押してくれる人。

本人は今日も、たぶん言うだろう。

「うちは大阪のおばちゃんちゃうし」

けれど、そのバッグの中には、今日も飴ちゃんが入っている。
軍手も、ちゃんと入っている。

そして誰かが困っていたら、きっとまた立ち止まる。

品良く。
力強く。
少し照れながら。

大阪のおばちゃんという言葉の中に、ほんとうは、こんな優しさも入っている。