清視「少年の時代」
第1章 畳の下の空(第2章へ)
西九条の町には、いつも何かの匂いがしていた。
川の匂い、鉄の匂い、湿った土の匂い。
夕方になると、家々の台所から煮炊きの湯気があがり、路地には子どもたちの声が転がっていた。
清視少年は、その町で生まれた。
家は二階建てだった。
広い家ではなかったが、子どもにとって家の広さは、部屋の数では決まらない。
母の声が届く場所。
父の足音が聞こえる場所。
帰ってくれば、誰かがそこにいる場所。
それだけで、家は十分に大きかった。
母は、よく台所に立っていた。
何を作ってくれていたのか、細かな献立までは、もう思い出せない。
けれど、湯気の向こうに見えた母の背中だけは、今も残っている。
鍋のふたが小さく鳴る音。
包丁がまな板に当たる音。
「早く手を洗いなさい」と言う声。
その声には、家の中の灯りのようなものがあった。
父は、多くを語る人ではなかった。
そこに座っているだけで、家の空気が少し変わった。
父が言えば、それは決まったことだった。
子どもが言い返すような時代ではない。
親というものは、今よりもずっと大きかった。
清視少年も、父に逆らおうと思ったことはなかった。
怖いというより、そういうものだと思っていた。
家の柱がそこに立っているように、父もまた、そこにいるだけで家を支えていた。
戦争が本格的に暮らしの中へ入り込む前、少年には少年の時間があった。
小学校一年、二年のころは、まだ遊ぶことができた。
友だちとかくれんぼをした。
路地の角に身を隠し、息を殺して、誰かが通り過ぎるのを待つ。
塀の陰から、笑いをこらえる息がもれた。
「もうええかい」と声がして、遠くから「まあだだよ」と返る。
そのころの西九条は、子どもの足で測れる町だった。
走れば、すぐに友だちの家へ着いた。
曲がり角の向こうには、知っている顔があった。
夕方になると、どこかの家から味噌の匂いがした。
裸電球の下で、大人たちが何かを話していた。
清視少年は、そんな町の中で、自分が大きくなっていくのだと思っていた。
けれど、ある日から、遊びの途中に別の声が割り込むようになった。
「空襲や、空襲」
最初は訓練だった。
本当の空襲ではない。
そう言われても、子どもには違いがわからなかった。
昼でも、夜でも、関係なくその声は来た。
遊んでいても、食事の前でも、眠りかけていても、突然、町の空気が張りつめる。
大人の声が飛ぶ。
子どもたちは走る。
家に戻る。
母の顔が、いつもより硬くなる。
清視少年の家では、一階の畳をめくると、その下に穴があった。
床下を一メートルほど掘った防空壕だった。
土の匂いがした。
湿った匂いだった。
そこへ入ると、体のまわりから急に世界が狭くなった。
畳が戻される。
光が消える。
けれど、完全な闇ではなかった。
畳と畳の間に、ほんの少しだけ隙間があった。
少年は、そこから外を見ていた。
見えるのは、家の中の一部だけだった。
母の足元。
柱の影。
誰かが動く気配。
外の世界は、畳一枚の向こうにあるのに、手の届かない場所のように見えた。
練習でも、怖かった。
怖い、と言えばよかったのかもしれない。
けれど、そのころの子どもは、簡単に「いや」とは言えなかった。
「やりたくない」とも言えなかった。
親は絶対だった。
先生も絶対だった。
大人の決めたことに、子どもが口を挟む余地はなかった。
だから少年は、畳の下で息をひそめた。
耳をすませた。
母の声を探した。
母が近くにいる。
それだけで、少しだけ怖さがやわらいだ。
学校へ行っても、勉強をしたという記憶は、ほとんど残っていない。
教室には机があった。
黒板もあった。
けれど、そこで何かを学んだというより、別のことをさせられていた記憶のほうが強い。
槍を作った。
子どもの手には大きすぎる棒を持たされ、それを前へ突き出す。
人を刺す稽古だった。
なぜ子どもがそんなことをしなければならないのか、清視少年にはわからなかった。
けれど、わからないと言える空気ではなかった。
「もっと強く」
先生の声が飛ぶ。
子どもたちは並んで、同じように腕を伸ばす。
棒の先が空を突く。
土の校庭に、足音だけがそろう。
手旗信号も習った。
「いろは」と言いながら、腕を右へ、左へ、斜めへ動かした。
意味を考える前に、体が命令に従う。
子どもたちは、小さな体を精いっぱい大きく見せるように、旗を振った。
防空頭巾をかぶる練習もあった。
サイレンが鳴る。
ウー、という音が、空から降りてくるようだった。
その音を聞くと、子どもたちはずらりと並び、耳をふさいでしゃがみ込んだ。
防空頭巾の中は暑かった。
息がこもった。
土の匂いと、自分の汗の匂いが混ざった。
誰もふざけなかった。
昔の先生は怖かった。
少しでも言うことを聞かなければ、すぐに手が飛んできた。
パン、と乾いた音がする。
叩かれた子は、泣くより先に姿勢を正した。
反抗する子どもなど、いなかった。
反抗という言葉そのものが、教室のどこにもなかった。
先生の顔色を見る。
大人の声を聞く。
言われた通りに動く。
そうすることで、一日が過ぎていった。
楽しいことは、少しずつ消えていった。
かくれんぼをしていた路地にも、別の空気が流れるようになった。
大人たちの声が低くなった。
食卓の上のものが少なくなった。
ラジオから聞こえる言葉は、いつも勇ましかった。
日本は強い。
日本は勝っている。
そう教えられていた。
けれど、子どもにもわかることがある。
大人の顔。
配られるものの少なさ。
町に走る車の音。
木を焚いて走る木炭トラックの煙。
石油がないという言葉は、まだ難しかった。
けれど、普通ではないものが町を走っていることだけはわかった。
煙を吐きながら、重たそうに進むトラック。
それを見ている子どもたち。
誰も大きな声で笑わなかった。
やがて、小学校三年の夏が来た。
子どもだけが、町を離れることになった。
集団疎開だった。
はじめは、京都へ行くと聞いていた。
京都なら、大きなパンがもらえる。
そんな話が、子どもたちの間に広がった。
誰が言ったのかはわからない。
けれど、そのころの子どもにとって、パンの話は何よりも大きかった。
大きなパン。
両手で持つようなパン。
それを考えると、知らない土地へ行く不安も、少しだけ薄まる気がした。
清視少年も、心のどこかでそのパンを思い浮かべていた。
けれど、行き先は京都ではなかった。
島根だった。
島根、と聞いても、少年にはそれがどれほど遠いのか、よくわからなかった。
ただ、大阪ではないことだけはわかった。
母のいる家ではないことも、わかった。
出発の日、駅には子どもたちが集まっていた。
荷物を持った子ども。
眠そうな子ども。
はしゃいでいるふりをしている子ども。
母親の袖を握って離さない子ども。
清視少年も、その中にいた。
母は、いつものように何かを整えていたのかもしれない。
荷物の紐。
服の襟。
手ぬぐいの位置。
母親というものは、別れの時でさえ、子どもの身のまわりを直そうとする。
「ちゃんと言うことを聞きなさい」
そう言ったのかもしれない。
それとも、何も言わなかったのかもしれない。
記憶というものは、言葉を先に失くして、声だけを残すことがある。
父はそばにいた。
大きな声は出さなかった。
励ますようなことも、あまり言わなかったように思う。
ただ、そこにいた。
その沈黙のほうが、少年にはあとまで残った。
電車が来る。
音が大きくなる。
大人たちが動き出す。
先生が子どもたちを並ばせる。
名前を呼ばれる。
返事をする。
清視少年は、列の中で母の方を見た。
母の顔は、人の肩や荷物に隠れて、はっきり見えなかった。
けれど、そこに母がいることはわかった。
父もいる。
西九条の町も、まだすぐ後ろにある。
けれど、電車に乗れば、それらは遠ざかる。
子どもだけで行く。
その言葉の意味が、ようやく体の中に入ってきた。
いやだとは言えなかった。
行きたくないとも言えなかった。
そういう時代だった。
だから清視少年は、言われた通りに電車へ乗った。
窓の外に、駅の人影が並んでいた。
母の姿を探した。
父の姿を探した。
見つけたような気もするし、見失ったような気もする。
電車がゆっくり動き出す。
西九条の町が、少しずつ後ろへ流れていった。
友だちとかくれんぼをした路地。
畳の下の暗がり。
母の台所。
父の沈黙。
防空頭巾の中の息苦しさ。
先生の手の音。
それらが一度に、少年の胸の中で小さくなっていった。
島根へ向かう電車の中で、子どもたちはまだ、大きなパンの話をしていたのかもしれない。
けれど清視少年は、窓の外を見ていた。
景色は知らないものに変わっていく。
空は大阪よりも広いように見えた。
その広さが、少し怖かった。
やがて彼は、京都ではない土地で、小さなコッペパンを前にすることになる。
そして、先生が「食べていい」と言うまで、じっと待つことになる。
けれど、その時の清視少年は、まだそれを知らなかった。
ただ、電車の窓に映る自分の顔を見ていた。
小学校三年の、どこにでもいる少年の顔だった。
その顔の後ろに、西九条の町が遠ざかっていった。
第2章 海の音がする部屋
海に着いた。
清視少年は、その時まだ、自分がどれほど遠い場所へ来たのか、よくわかっていなかった。
大阪を離れたことはわかっていた。
西九条の町が遠くなったことも、母の声がすぐには届かない場所に来たことも、体のどこかではわかっていた。
けれど、目の前に広がった海は、その寂しさよりも大きかった。
波が、白くほどけながら砂の上に寄せてくる。
また引いていく。
そのたびに、砂の色が少し変わった。
潮の匂いがした。
西九条の川の匂いとも違う。
台所の湯気の匂いとも違う。
人の暮らしの匂いよりも、もっと遠くから来る匂いだった。
清視少年は、しばらく海を見ていた。
この向こうには、何があるのだろう。
そう声に出したわけではない。
誰かに尋ねたわけでもない。
ただ、胸の奥に、小さな問いのようなものが生まれた。
海の向こうにも、町があるのだろうか。
そこにも人がいて、朝になれば働きに出て、道を歩き、乗り物に乗るのだろうか。
自分の知らない言葉で誰かが話し、自分の知らない場所から、自分の知らない道が続いているのだろうか。
もちろん、そのころの清視少年は、世界を知っていたわけではない。
外国という言葉も、まだ遠かった。
大きな町の下を鉄道が走ることなど、想像の外にあった。
けれど、見えないものを思い浮かべる力だけは、もう少年の中にあった。
その時、少年はまだ知らなかった。
いつか自分が、知らない町の駅に立ち、人の流れや道の形を見つめる仕事に関わることになるなど、思いもしなかった。
ただこの時、海の向こうにも知らない世界があるという気配だけが、胸の奥に小さく残った。
「こっちや」
先生の声で、清視少年は顔を上げた。
子どもたちは、荷物を持ったまま、木造の建物の前に集められた。
海浜ホテル、と誰かが言った。
ホテルという言葉を聞いて、何人かの子どもが少しだけ目を動かした。
大きな玄関や、白い布のかかった食卓を思い浮かべた子もいたかもしれない。
けれど、そこにあったのは、海風にさらされた木造二階建ての建物だった。
板の壁は黒ずみ、窓の桟には砂がついていた。
歩くと、床がぎしりと鳴った。
ホテルというより、木造の民宿に近かった。
それでも、そこが、これから寝起きする場所だった。
部屋には、何人かずつ入れられた。
布団が並ぶと、そこに人の場所ができた。
荷物を置けば、自分の場所になる。
家ではない。
しかし、夜になればそこで眠るしかない。
同じ大阪から来た子どもたちが、同じ部屋にいた。
はじめのうちは、誰かがわざと明るい声を出した。
荷物の中を探る音がした。
「ここ、風きついな」と言う子がいた。
別の子が、返事のかわりに鼻をすすった。
夕方になると、海のほうから風が吹いた。
障子の紙が、かすかにふるえた。
波の音が、遠くで同じ調子を繰り返していた。
大阪の夜には、人の気配があった。
隣の家の話し声、鍋の音、路地を走る足音。
島根の夜には、海の音があった。
清視少年は、布団に入ってからも、しばらく目を閉じなかった。
すると、布団の向こうから声がした。
「明日、この旅館の二階の奥へ行こか」
消灯の時間は過ぎていた。
誰の声だったのかは覚えていない。
同じ部屋の誰かだった。
「先生が言うてたな」
「奥は使うてへんって」
「ほんまか」
小さな声が布団の中を行き来した。
その話は、それで終わった。
けれど翌日になると、その奥が気になった。
子どもというものは不思議だった。
親と離れた寂しさもある。
知らない土地へ来た不安もある。
それなのに、知らない建物を見ると歩いてみたくなる。
昼休みだった。
先生の姿が見えない。
誰かが廊下へ出た。
清視少年も、その後ろについていった。
長い廊下だった。
床は歩くたびに小さく鳴った。
誰も探検しようとは言わない。
けれど全員が同じことを考えていた。
この先に何があるのだろう。
二階へ続く階段を見つけた。
急な木の階段だった。
手すりは潮風でざらついていた。
二階は静かだった。
使われていない座敷が並び、障子の隙間から細い光だけが差し込んでいた。
先生に見つかったら怒られる。
それでも子どもたちは先へ進んだ。
廊下の一番奥まで来た時だった。
小さな窓があった。
誰かが力を入れて開ける。
ぎしり、と音がした。
その瞬間、風が吹き込んできた。
少し湿った潮の匂いだった。
清視少年は窓へ近づいた。
外を見る。
青かった。
空だと思った。
けれど違った。
青はその先まで続いていた。
揺れていた。
光っていた。
海だった。
「海や」
誰かが小さく言った。
波が白く砕けている。
その向こうは見えない。
どこまで続いているのかわからない。
大阪では見たことのない広さだった。
清視少年は窓枠に手を置いたまま動かなかった。
母は、この海を知らない。
父も見ていない。
弟はもっと知らない。
自分だけが見ている。
そう思った時、自分が遠くへ来てしまったことだけが、波の音と一緒に胸へ入ってきた。
しばらく誰も喋らなかった。
やがて誰かが後ろを振り返った。
「先生、来てへんやろな」
その言葉で、みんなが急に現実へ戻った。
慌てて窓から離れる。
耳を澄ませる。
誰も来ない。
ほっとした空気が流れた。
その時だった。
一番年上の子が小さな声で言った。
「夜に来てみるか」
みんなが顔を見合わせた。
「夜?」
「先生、寝たあとや」
「見つかったら怒られるぞ」
「そら怒られるわ」
そう言いながらも、誰の顔も少し笑っていた。
疎開してからというもの、毎日が決められていた。
起きる時間。
並ぶ時間。
働く時間。
寝る時間。
先生の言う通りに動く毎日だった。
だからこそ、自分たちだけの秘密というものが少し嬉しかった。
「決まりやな」
そう言ったのは、部屋の中で一番大きな少年だった。
みんなは、その子のことを親分と呼んでいた。
本当の名前は知っていたはずなのに、いつの間にか誰もそう呼ばなくなっていた。
年は少し上だった。
体も大きかった。
喧嘩も強いらしい。
先生に叱られても顔色ひとつ変えない。
だからみんな自然とその後ろについて歩いていた。
「夜になったら集まるぞ」
親分が言う。
誰も反対しなかった。
清視少年も小さくうなずいた。
正直に言えば、少し怖かった。
同じ部屋になってからも、あまり話したことはない。
けれど不思議と嫌ではなかった。
親分は大きな声で威張ることがなかった。
弱い子をいじめることもなかった。
先生が見ていない時には、泣いている子の横へ黙って座ることもあった。
そのことを清視少年は知っていた。
だから怖いけれど、どこか安心する存在でもあった。
夜になった。
消灯の時間が過ぎる。
先生の見回りも終わった。
しばらくして、親分が布団の中から小さく言った。
「行くぞ」
その声だけで何人かが起き上がった。
暗闇の中を静かに歩く。
廊下へ出る。
床が鳴るたびに心臓が跳ねた。
けれど親分は振り返らない。
迷いなく前へ進んでいく。
その背中を見ながら、清視少年もついて行った。
二階へ上がる。
昼間よりもずっと暗かった。
窓から月の光が少しだけ差し込んでいる。
誰かが息を飲んだ。
親分は笑った。
「お化けなんかおらへん」
その一言で、みんなも少し笑った。
緊張がほどけた。
その時だった。
清視少年の足が廊下の段差に引っ掛かった。
体が前へ傾く。
転びそうになる。
とっさに腕をつかんだのは親分だった。
「大丈夫か」
声は小さかった。
けれど、その手は思っていたより温かかった。
「ありがとう」
清視少年も小さく言った。
親分は何も言わなかった。
そのまま前を向いて歩き出した。
けれど、その背中は昼間より少し近く感じられた。
島根へ来てから初めてだった。
この人となら大丈夫かもしれない。
そんな気持ちが胸の中に生まれたのは。
二階の奥まで来ると、廊下は行き止まりになっていた。
壁だった。
古い木の壁。
親分が近づいた。
何気なく手を置く。
すると、壁が少し動いた。
「ん?」
もう一度押してみる。
ギギギ、と音がした。
壁だと思っていたものは、引き戸だった。
みんな顔を見合わせた。
誰も喋らない。
親分がゆっくり横へ引いた。
暗い隙間が現れる。
冷たい空気が流れ出てきた。
「部屋や」
誰かが呟いた。
一人ずつ中へ入る。
思ったより広かった。
十人くらいなら十分入れる。
畳はきれいだった。
障子も破れていない。
埃も少ない。
使われていない部屋というより、昨日まで誰かが暮らしていたような部屋だった。
月明かりが障子越しに差し込んでいる。
床の間もあった。
古い掛け軸だけが残されていた。
みんな黙って見回した。
不思議な部屋だった。
こんな場所があったことを、誰も知らなかった。
翌日の昼。
清視少年は、その部屋のことを村の子どもたちに聞いてみた。
村の子どもたちは、海で日に焼けた顔をしていた。
髪には砂がついている。
裸足の子もいた。
「あの二階の奥の部屋、知っとるか」
すると村の子どもたちは顔を見合わせて笑った。
「知っとるで」
「昔からある」
「たまに遊ぶ」
そう言うと、みんな当たり前のように頷いた。
さらに、じゃがいもを茹でていたおばあちゃんにも聞いた。
海の近くの家に住んでいる人だった。
子どもたちはみんな、そのおばあちゃんを知っていた。
「ばあちゃん」
「なんや」
「あの二階の奥の部屋、誰の部屋なん」
おばあちゃんの手が少し止まった。
けれど驚いた顔はしなかった。
まるで最初から知っていたようだった。
「お前ら、またうろうろしとるんか」
しわだらけの顔が少し笑った。
どうやら、おばあちゃんは全部知っていたらしい。
子どもたちが廊下を歩いていることも。
押し入れを開けていることも。
先生に見つからないよう探検していることも。
「誰にも言うてへんだけや」
そう言って鍋の蓋を開けた。
湯気が立った。
しばらくしてから、おばあちゃんは小さく言った。
「あそこは昔、息子の部屋やった」
清視少年は黙った。
「今はおらん」
おばあちゃんは鍋を見たまま黙った。
風が吹いた。
湯気が揺れた。
「帰ってこんのんか」
誰かが聞いた。
おばあちゃんは答えなかった。
ただ、遠くの海を見ていた。
波の音だけが聞こえた。
しばらくして、おばあちゃんは言った。
「せやから誰も使わんのや」
その声は静かだった。
悲しいとも違った。
怒っているわけでもなかった。
長い時間をかけて石みたいに丸くなった声だった。
清視少年は振り返った。
旅館の二階の窓が見えた。
昨日、自分たちが入り込んだ部屋があった。
その部屋には、誰かの時間が残っていた。
誰かが笑い、
誰かが眠り、
誰かが海を見ていた。
そして今は、誰もいない。
そのことを、清視少年は初めて少しだけ考えた。
朝、子どもたちは並ばされた。
そして、パンが出た。
小さなコッペパンだった。
京都なら、大きなパンがもらえる。
大阪を出る前、子どもたちの間で、そんな話が広がっていた。
誰が言い出したのかはわからない。
けれど、その話は、知らない土地へ行く不安を少しだけ軽くしてくれた。
大きなパン。
両手で持つようなパン。
口いっぱいにほおばれるパン。
清視少年も、心のどこかでそれを思い浮かべていた。
けれど、目の前に置かれたパンは、手のひらにおさまるほどだった。
表面は少し乾いていた。
指で押せば、かたくへこみそうだった。
子どもたちは、それを見ていた。
誰もすぐには手を伸ばさなかった。
先生の声がまだだったからである。
目の前にある。
匂いもする。
けれど、食べてはいけない。
清視少年は、両手を膝の上に置いた。
隣の子の喉が、ごくりと動いた。
向かいの子は、パンを見ないように顔を少し横へ向けた。
それでも目だけは、またパンへ戻ってきた。
「食べてよし」
その声で、部屋の空気が動いた。
清視少年は、パンを持った。
軽かった。
噛むと、粉の味がした。
ほんの少し甘かった。
喉を通る時だけ、体の中にあたたかいものが落ちた。
すぐになくなった。
手のひらに残った細かな屑を、清視少年は指で集めた。
隣の子も同じことをしていた。
誰も、それを笑わなかった。
疎開先での暮らしは、教室よりも海の記憶として残った。
勉強をしたという感覚は、ほとんどない。
机や黒板よりも、砂と海水と、日に焼けた腕のほうが強く残っている。
朝になると、子どもたちは海へ出た。
小学校三年生、四年生の子どもたちが、列になって歩いた。
手にはバケツを持っていた。
まだ背の低い子もいた。
眠そうな顔の子もいた。
昨日の疲れが足に残っている子もいた。
それでも、誰も帰りたいとは言わなかった。
言えばどうなるかを、子どもたちは知っていた。
先生が先に歩いていた。
その背中を見ながら、子どもたちはついていった。
海岸には、すでに大人たちの足跡があった。
村の人たちも動いていた。
どうして子どもが海水を運ぶのか、清視少年にはわからなかった。
わからなかったが、誰も尋ねなかった。
大人が行けと言えば行く。
先生が並べと言えば並ぶ。
子どもたちは、そういう顔をして毎日を過ごしていた。
泣かずに働くことを覚えていった。
砂をまく。
海水を運ぶ。
乾かす。
集める。
炊く。
白い塩ができる。
それは、きれいだった。
けれど、その白さを見るたびに、清視少年の手は少しずつ荒れていった。
誰かが言った。
「これ、ほんまに勉強なんかな」
小さな声だった。
すぐに別の子が、先生の方を見た。
聞こえていない。
それだけで、みんな少し息をした。
清視少年は、その言葉を忘れなかった。
ほんまに勉強なんかな。
答えは、誰も教えてくれなかった。
ただ、海には、まだ知らないことがあると思った。
小学校三年、四年のころは、海浜ホテルから海へ通った。
五年生になると、お寺に入ることになった。
そこから海までは、四キロほどあった。
四キロという距離を、子どもは数字では覚えない。
足の裏で覚える。
昼ご飯は、お寺でもらったじゃがいもだった。
五つか六つ。
自分で煮る。
自分で袋を作る。
それを持って海へ行く。
じゃがいもは、温かい時もあれば、冷めている時もあった。
皮に土が残っていることもあった。
けれど、子どもたちは皮を厚くむいたりしなかった。
指で土をこすり、息を吹きかけ、口に入れた。
熱いと言って笑う子がいた。
半分をあとで食べようとして、結局すぐに食べてしまう子もいた。
清視少年も、袋の底に残った小さな欠片まで指で探した。
海岸では、風が強い日があった。
じゃがいもを持つ手に砂がつく。
それを払っても、またつく。
それでも食べた。
誰かが、ふと大阪の話をした。
「帰ったら、何食べたい」
答えは、たいてい食べ物だった。
白いご飯。
味噌汁。
大きなパン。
芋ではないもの。
腹いっぱいになるもの。
言えば言うほど、口の中が寂しくなった。
それでも子どもたちは話した。
話しているあいだだけ、家が少し近くなるような気がした。
二階の奥の部屋へ行く回数は、少しずつ増えていった。
昼休みになる。
誰かが廊下を歩き出す。
すると自然に後ろへ人が続く。
誰も約束などしていない。
けれど気がつけば集まっている。
大阪の子もいる。
村の子もいる。
部屋へ入る。
畳の上へ寝転ぶ。
窓を開ける。
海が見える。
空が見える。
白い雲がゆっくり流れていく。
波の音だけが聞こえる。
そこにいると、先生の怒鳴り声も、塩づくりの疲れも、少しだけ遠くなった。
ある日、親分が言った。
「合図決めるぞ」
夕方の光が畳を赤く染めていた。
窓の外では、海が静かに光っていた。
親分は大きな手を広げた。
「パーは逃げろや」
みんな笑った。
次に拳を握る。
「グーは静かにしろ」
今度はみんな真面目に頷いた。
最後に二本指を立てる。
「チーは止まれ」
「なんやそれ」
誰かが吹き出した。
笑い声が畳の上を転がった。
それでも合図は決まった。
その日から、その部屋は本当に秘密基地になった。
パーは、みんな逃げろ。
グーは、静かにしろ。
チーは、止まれ。
それだけで、子どもたちは動けた。
言葉を出さなくても通じる。
大人に聞かれなくても伝わる。
それは子どもたちだけの決まりだった。
村の子どもたちは、時々、さつまいもを持ってきてくれた。
それは宝物だった。
けれど、見つかってはいけなかった。
見つかれば取り上げられる。
大阪の子も。
村の子も。
その時だけは、みんな同じ顔になった。
さつまいもは、まだ温かいことがあった。
皮が少し焦げている。
甘い匂いが部屋いっぱいに広がった。
だから、布団をかぶって食べた。
二階の部屋の中で、子どもたちは息をひそめた。
布団の下は暗く、蒸し暑かった。
誰かの膝が当たる。
誰かの息が耳にかかる。
清視少年は、小さくかじった。
やわらかかった。
口の中で、ゆっくりほどけた。
誰かが笑いをこらえた。
「どこで手に入れたんや」
そう聞くと、村の子は少しだけ笑った。
「内緒や」
けれど清視少年は知っていた。
じゃがいものおばあちゃんだった。
海の見える家のおばあちゃん。
あの人が作っているのだ。
布団の外で足音がすると、全員の動きが止まった。
グー。
親分の手が拳になる。
静かにしろ。
みんな、口の中の芋まで止めた。
しばらくして、足音が遠ざかる。
チー。
まだ動くな。
さらに少し待つ。
そして、パー。
一気に布団の中がほどけた。
誰かが息を吐く。
誰かが笑いを押し殺す。
誰かが、もう一口かじる。
悪いことをしているようで、祭りのようでもあった。
年に一度、親が面会に来る日があった。
その日が近づくと、建物の中の空気が少し変わった。
服を何度も直す子がいた。
外ばかり見る子がいた。
来るかどうかわからない不安を、わざと大きな声で隠す子もいた。
清視少年の親も来た。
母の顔を見た時、胸の奥が一度、強く動いた。
けれど、会いたかったとは言わなかった。
言葉にすると、こぼれてしまいそうだった。
母は、パンを作って持ってきてくれていた。
清視少年のためのパンだった。
包みを見ただけで、それがわかった。
母の手で作ったもの。
大阪から持ってきたもの。
自分に食べさせようとしてくれたもの。
ところが、面会の場には先生がいた。
「何を持ってきましたか」
先生が親に聞いた。
母は、正直に答えた。
パンです、と。
そのあと、パンは清視少年の口には届かなかった。
目の前にあったものが、急に遠い場所のものになった。
母は困ったような顔をしたのかもしれない。
何か言いたかったのかもしれない。
それでも、その場では何も変わらなかった。
清視少年は、母の手を見た。
パンを包んできた手だった。
出発の日、襟を整えてくれた手だった。
荷物の紐を直してくれた手だった。
その手が、何も持たない手になっている。
少年には、そのことのほうがつらかった。
泣けばよかったのかもしれない。
怒ればよかったのかもしれない。
けれど、清視少年は何も言わなかった。
何も言わないことを、子どもはもう覚えていた。
親分の親が来る時は、違った。
その日、親分の親は、大きな缶を抱えてやって来た。
一斗缶だった。
中には、はじき豆を甘く煮たものがぎっしり入っていた。
子どもたちの目が変わった。
缶を見た瞬間だった。
歓声を上げる子はいない。
そんなことをすれば、すぐに先生に気づかれる。
みんな、唾を飲み込んだ。
それだけだった。
親分も何も言わない。
ただ缶を見ていた。
表に置いておけば、すぐに見つかる。
部屋に置いても、すぐに見つかる。
押し入れも危ない。
布団の下には入らない。
あまりにも大きい。
子どもたちにとって、その缶を隠すことは、大仕事だった。
その時だった。
親分が小さく頷いた。
それだけで作戦が始まった。
あとになって、子どもたちはその作戦をこう呼んだ。
一斗缶大作戦。
風の強い日だった。
海は朝から荒れていた。
灰色の雲が低く垂れこめている。
波が白く砕けるたび、窓ガラスがかすかに震えた。
親分が先頭を歩く。
缶を抱えた子が続く。
その横を、別の子が支える。
一斗缶は重かった。
中の豆が、歩くたびにわずかに揺れた。
廊下へ出る。
その時だった。
角の向こうから、人の気配がした。
一瞬で親分の手が動く。
グー。
全員が止まった。
息まで止まる。
足音だけが近づいてくる。
ギシ。
ギシ。
木の廊下が鳴る。
先生かもしれない。
心臓が喉まで上がってくる。
誰も動かない。
誰も喋らない。
缶を持っている子の腕が震えている。
けれど落とせない。
音を立てれば終わりだった。
しばらくして、足音は遠ざかった。
親分はすぐには動かない。
チー。
その場で待て。
まだ安心してはいけない。
子どもたちは、廊下の壁に身を寄せたまま、耳だけを澄ませた。
波の音。
風の音。
遠くの人の声。
先生の足音は、もう聞こえない。
その時、親分の手が開いた。
パー。
逃げろ。
みんなが一斉に動いた。
笑う者はいない。
缶を三人で抱えたまま走る。
畳の上。
廊下。
階段。
息が切れる。
足がもつれる。
それでも走る。
見つかったら終わりだった。
二階の秘密基地へたどり着いた時には、みんな汗だくだった。
窓の向こうでは、日本海が光っていた。
夕日が海へ沈みかけていた。
赤い光が部屋の中へ差し込んでいる。
その光の中で、子どもたちは一斗缶を囲んだ。
宝箱みたいだった。
親分が蓋を少しだけ開ける。
甘い匂いが広がった。
その瞬間、みんなの顔がほころんだ。
誰も声を出さない。
出せない。
けれど、目だけが笑っていた。
はじき豆だった。
山のように入っていた。
その夜から、秘密基地は本当の秘密基地になった。
夜になると、子どもたちは皿を持って二階へ上がった。
暗かった。
木の匂いがした。
板を踏むと、小さく鳴った。
みんな、足の置き場を探しながら座った。
豆は冷めていた。
けれど、皿にのせてもらうと、どの子もすぐには食べなかった。
まず、量を見た。
隣の皿も見た。
それから、音を立てないように口へ運んだ。
清視少年は、豆を噛みながら、母のパンのことを思い出した。
食べられなかったパン。
届かなかったパン。
母の手から離れて、自分の口には来なかったパン。
屋根裏の暗がりで食べる豆は、母のパンとは違った。
けれど、今、自分の口に入っている。
それだけで、豆は重かった。
そして五年生になり、お寺へ移ったあとも作戦は続いた。
ただし今度は二階がない。
隠し場所は床下だった。
床板をそっと外す。
土の匂いがする。
湿った空気が上がってくる。
その暗闇の中へ、一斗缶を押し込む。
何度も。
何度も。
見つからないように。
食べ物を守るために、子どもたちは知恵を絞った。
今思えば、ただの豆だったのかもしれない。
けれど当時の子どもたちにとっては違った。
それは宝物だった。
空腹に負けないための希望だった。
そして何より、みんなで守った秘密だった。
疎開先の先生たちも、最初のうちは、子どもたちをかわいそうに思っていたのかもしれない。
寂しいからだろうと言って、梨や果物を買い出しに行ってくれたこともあった。
鳥取まで行って、持って帰ってきて、みんなに配ってくれた。
梨をかじると、口の中に水が広がった。
その水分に、子どもたちは驚いた。
けれど、そういうことは長く続かなかった。
やがて、果物の匂いは記憶の中だけのものになった。
毎日は、また海へ戻った。
朝の道。
砂。
海水。
乾いた塩。
じゃがいも。
夕方の疲れた足。
同じことの繰り返しだったが、子どもたちは少しずつ、その暮らしに慣れていった。
慣れるというのは、楽になることではない。
何も言わなくなることだった。
島根では、大阪にいたころのような空襲の演習はなかった。
サイレンが鳴り、畳の下にもぐることはなかった。
ズキンを被り、伏せることもなかった。
そのかわり、別の静けさがあった。
親がいない静けさ。
帰る日が見えない静けさ。
食べ物を隠す時の静けさ。
先生の足音を聞く時の静けさ。
清視少年は、その静けさの中で暮らした。
夜、布団に入ると、隣の子の寝息が聞こえた。
誰かが寝返りを打つ。
誰かが小さく咳をする。
遠くで波が鳴る。
清視少年は、天井を見た。
家の天井ではなかった。
西九条の天井ではなかった。
母のいる家ではなかった。
それでも、隣には友だちがいた。
昼間、同じ道を歩いた友だち。
海水を運んだ友だち。
布団の中でさつまいもを分けた友だち。
屋根裏で豆を食べた友だち。
小さなコッペパンを、同じように待った友だち。
その寝息があるだけで、夜は少しだけ短くなった。
ある日の夕方、清視少年は、仕事を終えて海を見ていた。
波が寄せて、引いていく。
砂の上に残った泡が、すぐに消える。
その向こうには、何も見えない。
けれど、何もないわけではない。
見えない町がある。
見えない人がいる。
見えない道がある。
見えない乗り物が走っている。
少年は、そんなことをはっきり考えたわけではない。
ただ、海の向こうを見ていると、胸の中に、知らない場所への小さな興味が動いた。
大阪へ帰りたい気持ちとは別のところで、遠くを見たい気持ちが生まれていた。
島根の海辺で、少年は少しずつ大きくなっていった。
家族から離れたまま。
大阪の町がどうなっているのかも知らないまま。
まだ、戦争が終わる日を知らないまま。
第3章 玉音放送のあと
朝。
いつもの朝の音がなかった。
四キロも離れているはずの波の音まで聞こえてくるような、静けさだった。
清視少年は、目を開けた。
蝉の声が、遠くで鳴っている。
けれど、寺の中の音がしなかった。
誰かが布団を蹴る音も、先生の足音も、朝の支度を急がせる声も、まだ聞こえない。
寺の天井は暗かった。
木の梁が、障子を通した薄い光の中で、ぼんやり浮かんでいる。
明らかに、すべてがいつもとは違う空気に包まれていた。
布団の中には、まだ夜の湿り気が残っていた。
朝は、目が覚めると、いつも腹の中が軽かった。
軽いというより、何かが抜けているようだった。
あまりにも静かすぎるので、今日はじゃがいももないのかもしれない、という悪い予感が頭をよぎった。
さすがに、それはこたえる。
だから清視少年は、お腹を膨らませようとして、前の晩に食べたものを思い出した。
食べているつもりになろうとした。
布団の中でお腹が空いた時に、時々そうする。
けれど、その朝は思い出せなかった。
何を食べたのか。
どれだけ食べたのか。
味があったのか。
それさえ、もう体のどこにも残っていなかった。
清視少年は、起き上がった。
まだ眠そうな顔の子どもたちが、ひとり、またひとりと布団から出てくる。
布団をたたむ。
顔を洗う。
並ぶ。
先生の声を待つ。
それが、何度も繰り返してきた朝だった。
やがて、先生の声がした。
けれど、いつもの声ではなかった。
いつもなら、朝は怒鳴り声で始まる。
子どもたちはその声に追い立てられるように、海へ行く準備をする。
じゃがいもを茹でる者。
道具をそろえる者。
水を運ぶ者。
それぞれが班に分かれ、「各班、作業はじめ」の号令で動き出す。
けれど、その日の先生の声は、怒鳴り声ではなかった。
穏やかだった。
穏やかではあるが、命令であることには変わりなかった。
「食事の準備」
それだけだった。
普段なら、海へ行く準備の班と炊事場の班に分かれる。
けれど、その日は違った。
全員が同じ作業をすることになった。
子どもたちは違和感を覚えながらも、お寺の炊事場へ向かった。
この時間は、私語を厳しく禁じられている。
釜に水を入れる。
じゃがいもを入れる。
かまどに薪をくべる。
火を絶やさないように、細い薪を足していく。
煙が少し目にしみた。
湯気が上がる。
じゃがいもの匂いが、ゆっくりと炊事場に広がっていく。
それは、ごちそうの匂いではなかった。
けれど、腹の減った子どもたちには、十分すぎるほど食べ物の匂いだった。
しばらくして、先生の声がした。
「班長集合」
班長たちが、先生のもとへ集まった。
何かを渡されている。
清視少年は、少し離れたところからそれを見ていた。
やがて班長が戻ってきた。
手には一合枡があった。
枡のふちと同じ高さに、白いものがきれいにならされている。
塩だった。
すぐにわかった。
「先生が、手に塩をつけて、じゃがいもを食べろって言ってる」
班長が小さく言った。
今日は、砂のついた手でじゃがいもを食べなくて済む。
それだけのことだった。
けれど、それだけのことが、その朝は妙に大きく感じられた。
子どもたちは、じゃがいもを食べた。
手に少し塩をつける。
じゃがいもに触れる。
口に入れる。
いつものじゃがいもなのに、塩の味がした。
清視少年は、ゆっくり噛んだ。
急いで食べると、すぐになくなる。
けれど、ゆっくり食べても、なくなるものはなくなる。
食事が終わると、全員で炊事場を掃除した。
あまりにもいつもと違う。
それでも、誰もしゃべらなかった。
今、先生に注意されたら、確実に拳が飛んでくる。
誰もが、そう感じていた。
清視少年も、そんなことをはっきり考えたわけではなかった。
ただ、体がそう思っていた。
外へ出ると、空は白く霞んでいた。
夏の終わりのような、生ぬるい風が、木々の葉をかすかに揺らしていた。
昨夜の湿気が残り、土の匂う寺の庭に全員が一斉に集まった。
列を作る。
背の高い子が前か後ろか、そんなことはその日によって違った
清視少年は、友だちの背中を見ていた。
痩せた背中だった。
自分も同じような背中をしているのだろうと思った。
服は少しくたびれ、膝のところは擦れていた。
袖口には、洗っても落ちない汚れがついていた。
それでも誰も気にしなかった。
みんな同じだった。
先生が前に立った。
いつもなら、そこで一日の作業を言う。
海へ向かって、並んで歩く。
途中でふざけるな。
遅れるな。
先生の声は、そういう言葉で一日を始めるはずだった。
すでに正午になろうとしている。先生はすぐには話さなかった。
顔がいつもと違っていた。
怒っているのではない。
疲れているのでもない。
何かを考えているようでもない。
ただ、真っ直ぐ見ていた。
清視少年は、それを見た。
大人も、感情の表情が消え、真っ直ぐ見るのだと、その時初めて知った。
先生だけではなかった。
寺の人も、村の大人も、全員が集まり、誰も何も話していない、真っ直ぐ前を見ている。
こんなことは、疎開に来てから初めての事だ。それは、清視少年だけでなく、全員が思った。
それが、子ども達をかえって不安にした。
「今日は、海へ行かへんのかな」
隣の子が、唇だけで言った。
清視少年は答えなかった。
誰もが、その場の空気に抑えつけられている。
先生の後ろに、ラジオが置かれていた。
いつもの場所ではなかった。
わざわざ運んできたのだとわかった。
古い箱のようなラジオだった。
そこに大人たちの目が集まっていた。
子どもたちも、自然とそのほうを見る。
ラジオは何も言わない。
ただ、箱の中に何かが閉じ込められているようだった。
庭の葉が揺れる。
誰かの喉が、ごくりと鳴る。
いつもなら先生の怒鳴り声で壊れる朝の静けさが、その日はなかなか壊れなかった。
やがて、先生がラジオのスイッチを入れ、後ろに下がり傍へ並んだ。
音がした。
ざらざらとした音だった。
遠いところで紙をこすっているような音。
声が流れてきた。
清視少年には、その声の言葉がよくわからなかった。
聞いたことのある言葉のようで、聞いたことのない言葉のようでもあった。

大人の声だった。
けれど、近くにいる大人の声ではなかった。
空の向こうから降りてくるような声だった。
子どもたちは動かなかった。
誰も、咳をしなかった。
誰も、足を動かさなかった。
先生たちも黙っていた。
ラジオの声は続いた。
長い言葉が続く。
難しい言葉が続く。
清視少年は、意味を追おうとした。
けれど、頭の中に入ってこなかった。
ただ、大人たちが息を止めていることだけはわかった。
何かが起きている。
けれど、それが何なのか、わからない。
怖いのか。
悲しいのか。
助かったのか。
叱られるのか。
帰れるのか。
何もわからなかった。
ラジオの声が終わったあとも、すぐには誰も動かなかった。
その消えた音のあとに、さらに深い静けさが残った。
まるで寺の庭だけでなく、海も、村も、山も、いっせいに息をひそめているようだった。
先生の顔は、まだ無表情だった。
泣いているわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、何かを言おうとして、まだ言葉を見つけられない人の顔をしていた。
清視少年は、その顔を見ていた。
いつも怖かった先生が、その瞬間だけ遠く見えた。
先生というより、ひとりの大人に見えた。
そして、その大人もまた、何をすればいいのかわからなくなっているように見えた。
しばらくして、誰かが言った。
「戦争、終わったらしい」
それは子どもの声だったのか、大人の声だったのか、清視少年にはわからなかった。
ただ、その言葉の意味を全員が理解した。
戦争が、終わった。
もう一つ、別の言葉も聞こえた。
「負けたんや」
負けた。
その言葉のほうが、清視少年の体に残った。
日本は勝っている。
日本は強い。
大丈夫だ。
そう聞かされてきた。
ラジオでも、学校でも、大人の口からも、いつも同じようなことを聞いていた。
勝っている。
強い。
負けるはずがない。
それが、急に変わった。
負けた。
清視少年は、その言葉を頭の中で繰り返した。
負けたとは、どういうことなのか。
勝っていると言われていたものが、どうして負けたことになるのか。
昨日までの言葉は、どこへ行くのか。
わからなかった。
けれど、わからないままでも、何かが大きく変わったことだけはわかった。
それでも、目の前の景色は変わらなかった。
腹は減っている。
自分たちはまだ島根にいる。
大阪に帰れると言われたわけではない。
今日から腹いっぱい食べられると言われたわけでもない。
先生が急に優しくなったわけでもない。
清視少年は、庭の向こうを見た。
海のほうが少し光っていた。
雲の切れ間から日が差したのか、遠くの空だけが白く明るんでいた。
大人たちの声が、少しずつ遠くなった。
先生の存在も、寺の建物も、列になった子どもたちも、一瞬だけ遠ざかったように感じた。
ただ、今日もそこにある海。
戦争が勝っていても、負けていても、海は同じように寄せては返す。
自分は、これからどうなるのだろう。
そんな言葉を、はっきり思ったわけではなかった。
大人が言うことだけで一日が決まる世界。
先生の声で動き、親のいない場所で眠り、腹を減らして海へ歩く世界。
その世界が、ほんの少しだけ揺らいだ。
揺らいだ先に何があるのかは、わからない。
けれど、そこにはまだ見たことのない道があるような気がした。
それは、遠い未来の自分の姿を、ほんの一瞬だけ見たような感覚だった。
清視少年は、すぐに目を伏せた。
そんなことを考えている場合ではなかった。
終戦のあと、少しだけ変わったことがあった。
ご飯が、ほんの少し出るようになった。
それまでより、少しだけ。
本当に少しだけだった。
それでも子どもたちは、その少しにすぐ気づいた。
茶碗の底に残る米粒。
汁の中に浮かぶ何か。
口に入るものの重さ。
空腹の子どもは、そういう変化には敏感だった。
そして、ある日、缶詰が出てきた。
兵隊さんに配られるはずだったものだと、誰かが言った。
缶詰。
その言葉を聞いた時、子どもたちの顔が変わった。
缶詰というだけで、ごちそうに思えた。
中に何が入っているのか、誰も知らない。
魚なのか。
肉なのか。
何か甘いものなのか。
わからない。
わからないからこそ、余計に胸が鳴った。
金属の缶が並べられた。
鈍い光をしていた。
それは、じゃがいもとも、小さなコッペパンとも、さつまいもとも違った。
大人の食べ物のように見えた。
遠いところから来た食べ物のようにも見えた。
清視少年は、缶詰を見つめた。
目を離せなかった。
腹の奥が、急に動いた。
食べられる。
そう思った。
戦争が終わるというのは、こういうことなのかもしれない。
そう思いかけた。
誰かが缶を温め、子どもたちは待った。
待つことには慣れていた。
先生が食べていいと言うまで、パンを前にしても待った。
屋根裏の豆も、順番を待った。
布団の中のさつまいもも、足音が遠ざかるまで待った。
だから、その時も待った。
缶詰のふたが開けられた。
その瞬間だった。
においが来た。
ツーンとした。
鼻の奥を刺すような、きついにおいだった。
清視少年は、思わず顔を引いた。
隣の子も同じようにした。
誰かが小さく「うっ」と声を出した。
缶の中を見た。
食べ物の形はある。けれど、それは食べ物に見えなかった。
誰も手を出さなかった。
さっきまであれほど目を輝かせていた子どもたちが、急に黙った。
先生も、すぐには何も言わなかった。
缶詰は腐っていた。
防腐剤がなかったのだと、大人は言った。
けれど、子どもにとっては理由など関係なかった。
食べられると思ったものが、食べられなかった。
それだけだった。
清視少年は、缶の中を見ていた。
期待してはいけない。
ふと、そんな気持ちが胸の中に生まれた。
目の前に食べ物が出てきても、口に入るとは限らない。
母が持ってきてくれたパンもそうだった。
先生に聞かれ、正直に答えた母の手から、清視少年の口には届かなかった。
一斗缶の豆も、隠さなければ食べられなかった。
さつまいもも、布団をかぶらなければ食べられなかった。
そして今度は、食べていいと言われた缶詰が腐っていた。
戦争が終わったあとに出てきた最初のごちそうは、口に入らなかった。
清視少年は、唇を結んだ。
怒りではなかった。
泣きたいのとも違った。
ただ、何かを期待した自分が、少し恥ずかしいような気がした。
缶詰の匂いは、しばらく鼻に残った。
その日の夕方、海の風が吹いても、清視少年の中からその匂いはなかなか消えなかった。
「終わったらしいな」
「ほんまに帰れるんかな」
「大阪、どうなってるんやろ」
誰かがそう言う。
けれど、答えは誰も知らなかった。
西九条の町は、まだあるのか。
知りたくても、すぐには知れなかった。
子どもたちは、腹が減ると自然に集まった。
空腹は、ひとりでいると余計につらかった。
誰かと並んでいるほうが、まだましだった。
ある夜、親分が小さな声で言った。
「帰る時、みんな別々になるんかな」
誰もすぐには答えなかった。
暗い部屋の中で、布団の上に何人かが座っていた。
窓の外では、虫が鳴いていた。
海の音は遠かった。
「大阪へ帰ったら、また会えるやろ」
誰かが言った。
「大阪いうても、広いやろ」
別の子が言った。
その言葉で、みんな黙った。
清視少年は、親分の横顔を見た。
二階の秘密基地で、転びそうになった時に腕をつかんでくれた手。
一斗缶を隠す時、何も言わずに先頭を歩いた背中。
グー、チー、パーの合図。
布団の中で食べたさつまいも。
屋根裏で分けた豆。
それらは全部、戦争の中の出来事だった。
空腹の中で、友だちというものができた。
何も持っていない子どもたちが、少しずつ何かを分け合っていた。
清視少年は、何か言おうとして、やめた。
言えば、急に別れが近くなる気がした。
それからしばらくして、学校のような時間が戻ってきた。
戻ってきたといっても、新しい教科書が配られたわけではなかった。
机の前に座る。
先生が立つ。
子どもたちは、古い教科書を出す。
何度も開いた教科書だった。
角が丸くなっている。
手の汚れがついている。
紙は少し湿気を吸って、指に重かった。
先生が言った。
「墨を持ってこい」
「筆を持ってこい」
教科書を持ち出し、
「ここを黒く塗れ」
子どもたちは、言われた通りにした。
墨をすり、筆を濡らし、教科書の文字の上に黒を置く。
清視少年は、教科書を見た。
昨日まで読めと言われた文字。
覚えろと言われた文字。
大事だと言われた文字。
それを、今日は自分の手で消す。
筆を下ろす。
黒い線が紙の上を進む。
文字が隠れる。
もう読めない。
墨は最初、濡れて光っていた。
黒いのに、少し艶があった。
乾くと、そこだけ紙が重くなった。
清視少年は、黒くなったところを見つめた。
ここには何が書いてあったのだろう。
さっきまで見えていたはずなのに、もう思い出せなくなっていた。
戦争。
日本。
勝利。
強い国。
そんな言葉があったのかもしれない。
けれど、先生はそこを塗れと言った。
だから塗った。
言われた通りに。
清視少年は、ふと思った。
昨日まで正しかったものが、今日、黒くなる。
昨日まで声に出して読まされたものが、今日、読んではいけないものになる。
それなら、自分たちは何を聞いていたのだろう。
何を信じていたのだろう。
けれど、そこまで考えるには、清視少年はまだ子どもだった。
難しいことはわからなかった。
ただ、黒く塗ったところに、自分なら何を書くだろうと思った。
勝った、ではない。
強い、でもない。
敵を倒せ、でもない。
もっと別の言葉がいい。
腹いっぱい食べたい。
最初に浮かんだのは、それだった。
それはあまりに正直な言葉だった。
腹いっぱい食べられる時代。
そんな時代があるのなら、そこへ行ってみたいと思った。
海の向こうにも道があるのだろうか。
海の向こうにも町があるのだろうか。
けれど、黒く塗りつぶされた教科書を前にして、彼の中に小さな思いが生まれた。
消された文字の上には、別の文字を入れることができるのかもしれない。
誰かに塗れと言われた黒の上にも、いつか自分で何かを書けるのかもしれない。
戦争が終わって、しばらくしてから、帰る日が近づいてきた。
大阪へ帰る。
その言葉は、子どもたちの間を何度も行き来した。
最初は、誰も本気にしなかった。
帰れると言われても、すぐには信じられなかった。
何度も期待して、何度も外れてきたからだった。
けれど、荷物をまとめる話が出る。
先生たちが名簿を見ている。
大人たちが、いつもより忙しく動いている。
そういうものを見ているうちに、子どもたちは少しずつ、本当に帰るのかもしれないと思い始めた。
すると、急に落ち着かなくなった。
帰りたい。
それは本当だった。
西九条に帰りたい、それも本当だった。
けれど、島根でできた友だちと別れるのは、思っていたより胸に引っかかった。
村の子どもたちが来た。
いつものように、裸足の子もいた。
日に焼けた顔をしていた。
海の匂いをまとっていた。
「もう帰るんか」
そう聞かれた。
誰かが「たぶんな」と答えた。
それだけで、みんな少し黙った。
秘密基地に集まった。
二階の奥の部屋だった。
畳の上に座る。
親分が、何か言おうとしてやめた。
村の子どもが、ふざけて親分の背中を押した。
親分が怒ったふりをした。
それで、みんな笑った。
笑い始めると、止まらなくなった。
誰かが畳の上で転がった。
誰かが障子の陰に隠れた。
誰かが昔の合図を出した。
グー。
静かにしろ。
けれど、誰も静かにしなかった。
チー。
止まれ。
けれど、誰も止まらなかった。
パー。
逃げろ。
その瞬間、みんなが一斉に走り出した。
廊下を駆ける。
階段を降りる。
また上がる。
笑い声が、古い建物の中を走り回った。
それは、疎開してから一番大きな笑い声だったかもしれない。
空腹も、先生も、戦争も、帰る不安も、その瞬間だけ遠くへ行った。
けれど、当然、見つかった。
「何をしとるか!」
先生の怒鳴り声が響いた。
子どもたちは止まった。
止まったあとも、肩で息をしながら笑いをこらえていた。
先生の顔は赤かった。
かなり怒っていた。
一人ずつ並ばされた。
廊下に正座させられた。
「終わったからいうて、何をしてもええわけやない」
先生の声が飛んだ。
子どもたちは下を向いた。
清視少年も下を向いた。
畳の目が見えた。
自分の膝が見えた。
けれど、胸の奥では、まださっきの笑いが少し残っていた。
先生は、しばらく怒った。
かなり長く怒った。
けれど、その日の先生は、いつもの怖さだけではなかった。
途中で声が少し変わった。
「お前らは、帰るんやな」
誰も返事をしなかった。
先生は、少し黙った。
そして、低い声で言った。
「帰ったら、よう見とけ」
清視少年は顔を上げた。
先生は、子どもたちを見ていた。
「何が残って、何がなくなったか。よう見とけ」
その声には、怒りとは違うものがあった。
「大人が始めたもんの後片付けを、これからの者がせなあかん。お前らは子どもや。けど、いつまでも子どもではおられへん」
先生は、そこで言葉を切った。
廊下に静けさが戻った。
遠くで、海が鳴っているように感じた。
「腹が減ったことを忘れるな。親と離れたことも忘れるな。けど、それだけで終わるな」
先生は、子どもたちをひとりずつ見るようにして言った。
「これからは、前を向かなあかん」
清視少年には、その言葉の全部はわからなかった。
後片付け。
これからの者。
前を向く。
難しかった。
けれど、先生の声がいつもと違うことはわかった。
それは、怒っている先生の声ではなかった。
命令する先生の声でもなかった。
子どもたちに、何かを渡そうとしている声だった。
形のないもの。
食べ物でもなく、教科書でもなく、罰でもないもの。
先生は、ふっと息を吐いた。
そして、少しだけ声を張った。
「ほな、鬼ごっこの続きや」
子どもたちは顔を上げた。
先生は、まだ少し怖い顔をしていた。
けれど、その目だけが、さっきまでとは違っていた。
「目一杯、元気よく、はじめっ!」
その瞬間だった。
誰ひとり声を掛けたわけではない。
それなのに全員が、まるで一つの心で結ばれているかのように、同時に片手を高く掲げた。
開かれた手のひらが、いっせいに空へ向いた。
無数のパーが、その場の空気を押し上げた。
パーは、逃げろ。
けれど、その時のパーは、ただ逃げる合図ではなかった。
生きろ。
走れ。
前へ行け。
そう言っているようにも見えた。
子どもたちは走り出した。
その中に、清視少年の姿もあった。
先生は、その後ろ姿を黙って見ていた。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
大人が始めたことの後片付け。
これから生きる者が、前を向く。
清視少年は、それをうまく受け取れなかった。
ただ、胸の奥に置いた。
その夜、清視少年は、黒く塗りつぶした教科書を開いた。
墨の部分は乾いていた。
黒く、少しだけ光っていた。
そこに何が書いてあったのか、もう読めない。
指で触ると、紙が少し硬かった。
遠くで海が鳴っているように感じた。
戦争は終わったらしい。
日本は負けたらしい。
大阪へ帰る日も、近いらしい。
けれど、清視少年の毎日は、まだ終わっていなかった。
黒く塗られたところに、いつか別の言葉を書けるのなら。
そこには、腹いっぱい食べられる時代のことを書きたい。
人が人を遠くへ追いやらない時代のことを書きたい。
子どもが、先生の顔色だけを見て生きなくてもいい時代のことを書きたい。
そして、海の向こうまで続く道のことを書きたい。
清視少年は、教科書を閉じた。
布団に入る。
隣では友だちが眠っていた。
明日もまだ、島根にいる。
大阪へ帰るのは、もう少し先だった。
けれど、どこかで何かが終わり、どこかで何かが始まっている。
そのことだけは、子どもの胸にも、少しだけわかった。
海の音を感じながら、
その音の中で、清視少年は目を閉じた。
第4章 焼け野原の子どもたち
「大阪や」
誰かが言った。
その声で、子どもたちはいっせいに窓の外を見た。
清視少年も、座席から身を乗り出した。
大阪。
その言葉を、島根にいるあいだ、何度思い浮かべただろう。
西九条の家。
母のいる台所。
父が黙って座っている部屋。
まだ小さかった弟。
友だちとかくれんぼをした路地。
畳の下の暗がり。
それらが、もうすぐ戻ってくる。
そう思っていた。
けれど、窓の外に見えてきた大阪は、清視少年の知っている大阪とは違っていた。
建物がなかった。
屋根がなかった。
壁がなかった。
見えるはずのないところまで、空が見えた。
電車が進むにつれて、黒く焼けた柱が現れた。
途中で折れた柱。
傾いたまま立っている柱。
地面には、瓦や木材のようなものが積み重なっていた。
灰色の土の上に、ところどころ黒いものが残っていた。
それが何なのか、遠くからではわからなかった。
子どもたちの声が、少しずつ小さくなった。
「ここ、大阪なんか」
誰かが言った。
返事をする者はいなかった。
島根から帰ると聞いた時、子どもたちは喜んだ。
帰れる。
親に会える。
大阪へ戻れる。
けれど、大阪へ近づくほど、車内の空気は重くなっていった。
窓に額をつけていた子が、ゆっくり座席へ戻った。
別の子は、何かを探すように、ずっと外を見ていた。
自分の家の屋根を探しているのかもしれなかった。
自分の町の煙突を探しているのかもしれなかった。
清視少年も、西九条の景色を探した。
川。
工場。
家々の屋根。
曲がり角。
けれど、どれが西九条なのか、わからなくなっていた。
見慣れたものがなくなると、町は急に知らない場所になる。
道があっても、その道がどこへ続いていたのかわからない。
柱が一本残っていても、それが誰の家だったのかわからない。
大阪の空は広くなっていた。
島根の海辺で見た空とは違った。
海の上に広がる空ではなかった。
家がなくなったために見えてしまった空だった。
清視少年は、その空をきれいだとは思わなかった。
広いとも思わなかった。
ただ、寒そうな空だと思った。
夏はもう過ぎていた。
風が、焼けた地面の上を吹いていた。
列車を降りると、人の声が一度に耳へ入ってきた。
名前を呼ぶ声。
子どもを探す声。
泣いている声。
先生の指示。
荷物を運ぶ音。
島根を出る時、親分や友だちと別れた寂しさがあった。
けれど大阪へ着くと、その寂しさを考える暇もなかった。
子どもたちは、それぞれ自分を迎えに来た人を探した。
清視少年も人の顔を見た。
母を探した。
父を探した。
見覚えのある着物。
見覚えのある立ち方。
人の肩と肩のあいだに、母の顔が見えた。
清視少年は、すぐには動けなかった。
母だった。
痩せていた。
島根へ来てくれた面会の日よりも、さらに小さくなったように見えた。
けれど、その目は同じだった。
清視少年を見つけた時、母の顔が少し動いた。
笑ったようにも見えた。
泣きそうになったようにも見えた。
「清視」
母が名前を呼んだ。
その声を聞いた瞬間、清視少年の中にあった大阪が戻ってきた。
家は見えない。
町も見えない。
けれど、母の声だけは変わっていなかった。
清視少年は、母のところへ歩いた。
走ろうとは思わなかった。
荷物が重かったからかもしれない。
人が多かったからかもしれない。
それとも、長く離れすぎていて、どのように近づけばよいのかわからなかったのかもしれない。
母は、清視少年の肩に手を置いた。
顔を見た。
服を見た。
腕を見た。
そして、荷物の紐を直した。
島根へ向かう駅で、最後に見た時と同じ手だった。
その手が肩に触れた時、清視少年はようやく帰ってきたのだと思った。
父もいた。
少し離れたところに立っていた。
清視少年の顔を見て、短くうなずいた。
「帰ったか」
それだけだった。
清視少年も、うなずいた。
父は荷物を持った。
重いとも言わなかった。
清視少年がどのような暮らしをしてきたのか、すぐには尋ねなかった。
ただ、少年の荷物を持ち、先に歩いた。
その背中を見ながら、清視少年は父も少し小さくなったように思った。
弟も生きていた。
七つ下の、小さな弟だった。
離れた時には、まだ戦争の中に生まれたばかりのような子だった。
その弟が、自分の足で立っていた。
清視少年を見上げていた。
けれど、すぐには近づいてこなかった。
兄の顔を忘れていたのかもしれない。
清視少年も、弟の顔をじっと見た。
知っている顔のようで、知らない子どものようにも見えた。
母が弟の背中を押した。
「お兄ちゃんやで」
弟は、まだ黙っていた。
清視少年は、何と言えばよいのかわからなかった。
久しぶり、と言うのもおかしかった。
大きくなったな、と言うには、自分もまだ子どもだった。
だから、清視少年は弟の頭へ手を置いた。
髪がやわらかかった。
弟は逃げなかった。
それだけでよかった。
家族は生きていた。
それは、当たり前のことではなかった。
清視少年は、家へ帰れるものだと思っていた。
西九条の、二階建ての家へ。
母が台所に立っていた家へ。
父の足音がした家へ。
畳をめくれば、防空壕があった家へ。
けれど、その家はもうなかった。
西九条へ行くと、町は焼けていた。
家があったはずの場所に立っても、清視少年には確信が持てなかった。
ここだったのか。
もう少し向こうだったのか。
路地がなくなっていた。
目印にしていた塀もなかった。
隣の家も、その隣の家もなかった。
地面の上には、焼けた瓦と、曲がった金属が残っていた。
黒く焦げた茶碗の欠片が落ちていた。
誰のものかはわからなかった。
清視少年は、足元を見た。
この下に、畳の下の防空壕があるのだろうか。
自分が小さな体を縮め、隙間から母の足を見ていた穴が、まだ土の中に残っているのだろうか。
掘って確かめようとは思わなかった。
確かめても、もう戻れないことがわかっていた。
「ここやったんかな」
清視少年が言った。
母は、すぐには答えなかった。
焼け跡の向こうを見ていた。
「あの辺や」
しばらくして、母は言った。
指を差した先にも、何もなかった。
父は黙っていた。
瓦の上に立ち、地面を見ていた。
何かを探しているようにも見えた。
けれど、父は何も拾わなかった。
風が吹いた。
灰が少し舞った。
焦げた匂いが、まだ土の中から上がってくるようだった。
島根にいるあいだ、清視少年は何度も家を思い出した。
母の手。
父の沈黙。
弟。
食卓。
夜の部屋。
けれど、思い出していた家は、もうこの世にはなかった。
人は生きている。
家だけがない。
清視少年には、そのことが不思議だった。
家というものは、人がいるから家なのだと思っていた。
けれど、人が生きていても、家はなくなる。
反対に、家が残っていても、人が戻らないこともある。
疎開先から帰ってきた子どもたちの中には、迎えに来る親がいない子もいた。
父も母も、空襲で亡くなっていた。
家へ帰っても、誰もいない。
帰る家そのものがない。
そのような子どもたちは、戦争孤児と呼ばれた。
言葉だけを聞けば、何かの名前のようだった。
けれど、町で見た子どもたちは、名前ではなかった。
人だった。
清視少年と同じくらいの年の子もいた。
少し上の子もいた。
もっと小さな子もいた。
顔が黒かった。
煤なのか、土なのか、何日も洗っていないためなのか、わからなかった。
腕も足も細かった。
服は破れ、布が重なっていた。
靴を履いていない子もいた。
子どもたちだけで集まり、地面に座っていた。
誰かが何かを持ってくるのを待っているようにも見えた。
誰かから何かを取られないように、見張っているようにも見えた。
笑っている子もいた。
喧嘩をしている子もいた。
年下の子の手を引いている子もいた。
清視少年は、その子どもたちを見た。
自分も、あちら側にいたかもしれない。
母がいなければ。
父がいなければ。
弟がいなければ。
自分も、あの中に座っていたかもしれない。
そう考えると、母の手が急に重く思えた。
父の短い返事も、弟のやわらかい髪も、すべてが失くさずに済んだものに見えた。
けれど、清視少年は、そのことを口にはしなかった。
かわいそうやな、とも言わなかった。
その言葉を自分が言ってはいけないような気がした。
子どもたちは、こちらを見ていた。
助けてほしいという顔ではなかった。
同情してほしいという顔でもなかった。
ただ、そこに立つ清視少年を見ていた。
清視少年も、その子どもたちを見た。
同じ子どもだった。
違うのは、親が生きているかどうかだった。
家族は、西九条を離れた。
東淀川へ移った。
そこには、田んぼが多く残っていた。
レンコン畑もあった。
清視少年が知っている西九条とは違う町だった。
道の向こうに、水を張った田が見えた。
風が吹くと、稲が波のように動いた。
レンコン畑の葉は大きく、雨のあとは水を丸く乗せていた。
西九条の鉄や川の匂いとは違う。
湿った土と、水の匂いがした。
新しい家は、前の家とは違った。
どこに何があるのか、すぐには体が覚えなかった。
夜、目が覚める。
天井を見る。
一瞬、島根の寺にいるのかと思う。
次に、西九条の家にいるのかと思う。
けれど、どちらでもない。
母の寝息がした。
弟が寝返りを打った。
父の気配がした。
それで、ここが今の家なのだとわかった。
戦争は終わった。
けれど、食べ物はなかった。
ご飯は配給だった。
米だけでは足りなかった。
トウモロコシの粉のようなものも配られた。
それでも、何かが配られる日は嬉しかった。
袋の重さを手に感じる。
今日は食べるものがある。
それだけで、家の中の空気が少しやわらいだ。
学校の昼休みになると、子どもたちは家へ帰った。
学校で昼ご飯が出るわけではなかった。
家へ戻り、何かを食べ、また学校へ向かう。
何もない日もあった。
あっても、腹いっぱいになるほどではなかった。
清視少年は、島根でじゃがいもを五つか六つ袋に入れ、海まで歩いた日々を思い出した。
大阪へ帰れば食べられる。
そう思っていた。
けれど、大阪も腹を減らしていた。
大人は働いていた。
働けば金はもらえた。
けれど、金を持っていても、食べ物がないことがあった。
農家まで食べ物を求めて行く人もいた。
遠い土地まで、食べるものを取りに行くこともあった。
戦争が終われば、すべて元へ戻るのではなかった。
終わったあとには、終わったあとの暮らしがあった。
その暮らしもまた、子どもにとっては長かった。
戦争が終わっても、学校が急にやさしい場所になったわけではなかった。
大阪の先生も怖かった。
島根にいたころ、先生の足音を聞くだけで体が固くなった。
大阪へ帰れば、それも終わるような気がしていた。
けれど、教室に戻ってみると、先生の声は以前と同じように大きく、手もすぐに飛んできた。
ある日の体育の時間だった。
校庭では、器械体操の練習が行われていた。
子どもが子どもの肩に乗り、その上へ、さらに別の子が登っていく。
何人もの体で、大きな形を作る。
下になる子どもは、歯を食いしばっていた。
肩に乗る足の重さに耐えながら、動くなと言われる。
少しでも姿勢が崩れると、先生の声が飛んだ。
「しっかりせえ」
清視少年も、列の中にいた。
自分の順番を待ちながら、土の上を見ていた。
その時、どこからかボールが転がってきた。
ころころと、清視少年の足元で止まった。
誰が投げたのかはわからなかった。
清視少年はボールを拾った。
そして、転がってきたほうへ投げ返した。
ただ、それだけだった。
「今、ボールを投げたんは誰や」
先生の声がした。
校庭の空気が止まった。
清視少年は、手を下ろしたまま動かなかった。
隠しても仕方がなかった。
先生は見ていた。
「前へ出ろ」
清視少年は、みんなの前へ歩いた。
足元の土が、いつもより白く見えた。
先生の手には、バットがあった。
野球に使うためのものだった。
けれど、その時は野球の道具には見えなかった。
「尻を出せ」
清視少年は、先生の顔を見た。
聞き間違いではなかった。
まわりには、同じ学校の子どもたちが並んでいた。
友だちもいた。
誰も笑わなかった。
誰も顔を上げなかった。
清視少年は、言われた通りにした。
ズボンを下ろした。
風が、むき出しになった肌に触れた。
恥ずかしかった。
怖かった。
けれど、やめてくださいとは言えなかった。
島根でも、大阪でも、大人に「いや」と言う言葉は、子どもの口にはなかった。
バットが振られた。
乾いた音がした。
痛みは、少し遅れて体の中へ入ってきた。
清視少年は、声を出さなかった。
もう一度、音がした。
歯を食いしばった。
泣けば、さらに叱られるような気がした。
それよりも、友だちに見られていることのほうがつらかった。
土を見た。
小さな石があった。
靴の先が見えた。
顔を上げれば、みんなの目がある。
だから、ずっと地面を見ていた。
その先生は、予科練にいた人だと聞いた。
戦争の中で、自分の命を惜しまず、敵へ向かうことを教え込まれた人だった。
特攻という言葉が、まだ大人たちの体から抜けきっていない時代だった。
戦争が終わったからといって、その人の中に残ったものまで、すぐに消えるわけではなかった。
命令に従うこと。
弱音を吐かないこと。
痛みに耐えること。
恐れないこと。
先生は、それを子どもたちにも求めていたのかもしれない。
けれど、そのころの清視少年に、そんなことはわからなかった。
ただ、先生が怖かった。
ボールを投げ返しただけで、なぜここまでされるのかもわからなかった。
わからなくても、罰は受けなければならなかった。
やがて、先生が言った。
「戻れ」
清視少年は服を直した。
振り返らず、列へ戻った。
友だちは何も言わなかった。
清視少年も何も言わなかった。
体育の授業は、そのまま続いた。
また子どもが子どもの肩へ乗った。
その上へ、さらに別の子が登った。
先生の号令が校庭に響いた。
戦争は終わっていた。
けれど、学校の中には、まだ戦争の時の声が残っていた。
家へ帰ると、母がいた。
清視少年の歩き方を見て、何かに気づいたのかもしれない。
けれど、母はすぐには尋ねなかった。
清視少年も話さなかった。
母は、黙って夕飯の支度をしていた。
鍋のふたが、小さく鳴った。
その音を聞いているうちに、校庭で聞いたバットの音が、少しだけ遠くなった。
清視少年は、時々、阪神百貨店の近くへ行った。
そこには闇市があった。
店と呼べるような店ではなかった。
地面に布を敷き、その上に品物を並べている人がいた。
木箱を台にしている人もいた。
鍋から湯気を立てている人もいた。
何を売っているのか、近づかなければわからなかった。
食べ物。
服。
靴。
鍋。
道具。
どこから持ってきたのかわからないもの。
売っている人も、買っている人も、みな疲れた顔をしていた。
服は汚れ、顔には煤がついていた。
声だけは大きかった。
「あるで」
「安いで」
「これで最後や」
怒鳴るような声が行き交った。
腹を減らした人の目は、品物だけを見ていた。
誰も、きれいな格好などしていなかった。
町全体が、一度焼けて、その灰の中から立ち上がろうとしているようだった。
大阪駅の近くには、大きな空き地のような場所があった。
そこに、アメリカ軍のトラックが止まっていた。
通称「ジミー」
大きな車だった。
タイヤがたくさんついていた。
子どもたちは、それを十輪車と呼んだ。
前に二つ。
後ろにいくつも。
数えてみると、十個あるように見えた。
島根で海を見た時、清視少年は、海の向こうにも町があり、道があり、見たことのない乗り物が走っているのだろうかと思った。
その見たことのない乗り物が、今、大阪駅の前に止まっていた。
エンジンの音が低く響いた。
車体は大きく、子どもの背では荷台の中が見えなかった。
アメリカ兵が乗っていた。
ついこの前まで、敵と呼ばれていた人たちだった。
学校では、アメリカは恐ろしい国だと教えられていた。
倒さなければならない相手だと聞かされていた。
そのアメリカ人が、大阪の真ん中にいた。
清視少年は、少し離れたところから見ていた。
恐ろしい顔をしているのかと思った。
けれど、笑っていた。
何かを口に入れて噛んでいる者もいた。
制服は汚れていなかった。
靴もしっかりしていた。
体も大きかった。
同じ戦争をしていたはずなのに、こちらとはまるで違う姿をしていた。
アメリカ兵は、子どもたちに何かを投げた。
茶色いものだった。
子どもたちが一斉に拾いに走った。
チョコレートだった。
別の日には、チューインガムだった。
清視少年は、それを見ていた。
アメリカ兵は、誰にでも渡しているわけではなかった。
きちんとした服を着た子どもが手を出しても、渡さないことがあった。
顔が黒く、服が破れ、裸足で立っている子どものほうへ投げた。
戦争孤児だった。
アメリカ兵は、子どもたちの服を見ていた。
顔を見ていた。
誰が食べるものを持っていないか、わかっているようだった。
一人の小さな子が、地面に落ちたガムを拾った。
汚れを手で払い、そのまま口へ入れた。
アメリカ兵は、その子を見ていた。
笑ってはいなかった。
清視少年は、不思議に思った。
敵ではなかったのか。
鬼のような人間ではなかったのか。
日本を焼いた人間ではなかったのか。
その人たちが、親のいない子どもにチョコレートを渡している。
清視少年には、うまく考えられなかった。
敵だから悪い。
味方だから正しい。
そのように教えられてきた。
けれど、目の前の光景は、それだけでは片づけられなかった。
もちろん、焼け野原を見れば、何もかも許せるわけではなかった。
西九条の家はない。
帰る家を失った子どももいる。
父や母を失った子どももいる。
それでも、今、目の前のアメリカ兵は、黒い顔の子どもへ食べ物を渡していた。
清視少年は思った。
人は、国の名前だけではわからないのかもしれない。
けれど、その考えは、まだ言葉にはならなかった。
胸の中に、ただ小さな引っかかりとして残った。
ある日、学校へアメリカ兵がやって来た。
ジープが校門から勢いよく入ってきた。
エンジンの音が校庭に響いた。
子どもたちは、何事かと思って見た。
先生たちも外へ出てきた。
アメリカ兵は、車から大きなスイカを下ろした。
一つではなかった。
いくつかあった。
子どもたちは目を見開いた。
あれほど大きなスイカを、久しぶりに見た。
アメリカ兵は、先生に何かを話した。
言葉はよくわからなかった。
身振りで、切ってほしいと言っているようだった。
先生たちは、包丁を持ってきた。
スイカを切った。
赤い色が現れた。
黒い種が並んでいた。
甘い匂いがした。
子どもたちは、少し離れたところから見ていた。
アメリカ兵は、自分たちが食べる分を持った。
そして、残ったスイカを指さした。
子どもたちへやれ、ということらしかった。
それだけ言うと、またジープに乗った。
エンジンが鳴った。
土煙を上げて、校門から出ていった。
子どもたちは、去っていく車を見ていた。
先生も見ていた。
しばらく誰も動かなかった。
敵だった人間が学校へ入ってきた。
スイカを切らせた。
自分たちの分を持っていった。
残りを子どもたちへ置いていった。
清視少年には、何もかもが異様だった。
昔なら、アメリカ兵が学校へ入ってくることなど考えられなかった。
槍を持たされ、敵を刺す練習をしていた校庭に、今はアメリカのジープが止まっていた。
先生の命令で、防空頭巾をかぶってしゃがんだ校庭で、今は赤いスイカが切られていた。
世の中は、昨日までと反対になっているようだった。
スイカが分けられた。
清視少年も一切れ受け取った。
赤い果肉をかじった。
水が口の中に広がった。
甘かった。
島根で先生が買ってきてくれた梨を食べた時のように、口の中が一度に潤った。
種を出しながら、清視少年は、ジープの走り去った校門を見た。
おいしいと思った。
けれど、喜んでよいのかはわからなかった。
それでも、もう一口食べた。
子どもの腹は、国のことまでは考えてくれなかった。
甘いものは、甘かった。
そのころの学校には、戦争の残りが、思いがけないところに隠れていた。
ある日、清視少年は友だちと砂場で遊んでいた。
砂を掘っていた。
何を作ろうとしていたのかは覚えていない。
山だったのか。
穴だったのか。
城だったのか。
戦争が終わったあとも、子どもは砂場で遊んだ。
手で砂を集める。
指の間から砂が落ちる。
湿ったところまで掘る。
すると、指先に硬いものが当たった。
石ではなかった。
木でもなかった。
「なんや、これ」
清視少年は、まわりの砂を払った。
黒い金属が見えた。
さらに掘る。
長かった。
細い筒のような部分があった。
木でできたところもあった。
友だちが集まってきた。
「鉄砲や」
誰かが言った。
肩にかけて使う、大きな鉄砲だった。
ライフルだった。
子どもたちは、すぐには逃げなかった。
怖いというより、信じられなかった。
昨日まで、学校で槍を持たされ、人を刺す稽古をしていた。
戦争が終わると、その教科書を黒く塗った。
そして今、子どもたちが遊ぶ砂場から、本物の鉄砲が出てきた。
清視少年は、その長い銃を見た。
誰が埋めたのか。
いつ埋めたのか。
なぜ学校の砂場にあったのか。
何もわからなかった。
先生が来た。
子どもたちは下がらされた。
鉄砲は大人たちに運ばれていった。
そのあと、砂場はならされた。
穴は埋められた。
次の日には、何もなかったように子どもたちが遊んでいた。
けれど、清視少年は、その場所を覚えていた。
砂の下には、見えないものが埋まっている。
町の下にも。
学校の下にも。
大人たちの沈黙の下にも。
戦争は終わったと言われた。
けれど、終わったものは、すぐには消えなかった。
焼けた家。
黒い教科書。
親のいない子ども。
闇市。
アメリカ軍の車。
もらったチョコレート。
学校へ運び込まれたスイカ。
砂の中の鉄砲。
それらが同じ町の中にあった。
清視少年は、その町を毎日歩いた。
友だちと学校へ通った。
腹を減らした。
家へ帰れば、母がいた。
父がいた。
弟がいた。
それだけで、自分は恵まれているのだと、少しずつわかるようになった。
けれど、恵まれていると思うだけでは、腹はいっぱいにならなかった。
町も元には戻らなかった。
焼け野原には、新しい建物を建てなければならない。
道を直さなければならない。
電車を走らせなければならない。
人が暮らす場所を作らなければならない。
清視少年は、まだそのことを仕事とは考えていなかった。
ただ、焼け跡の向こうに道が延びているのを見ていた。
その道を、荷物を背負った人が歩いていた。
自転車を押す人がいた。
板を運ぶ人がいた。
瓦礫を片づける人がいた。
誰も、町が元に戻るのを待ってはいなかった。
自分たちの手で、少しずつ戻そうとしていた。
ある夕方、清視少年は東淀川の田んぼのそばに立っていた。
風が稲を揺らしていた。
遠くで電車の音がした。
西九条の家はなくなった。
島根の海も遠くなった。
けれど、自分はここにいる。
母もいる。
父もいる。
弟もいる。
生き残った人たちがいる。
清視少年は、道の先を見た。
そこにはまだ、何も建っていない場所があった。
何もない場所。
けれど、何もないからこそ、これから何かを作ることができる。
黒く塗りつぶした教科書を見た時と同じように、少年の胸に、まだ言葉にならない思いが浮かんだ。
消えた場所には、もう一度、線を引けるのかもしれない。
焼けた町にも、新しい道を通せるのかもしれない。
人が集まり、歩き、乗り物に乗り、家へ帰る場所を、もう一度作れるのかもしれない。
そのころの清視少年は、まだ知らなかった。
いつか自分が、町の形を考える側に立つことを。
多くの人が行き交う駅や、道や建物に関わることを。
町を使う人ではなく、町を支える人になっていくことを。
清視少年は、ただ、風に揺れる田んぼを見ていた。
腹は減っていた。
靴には土がついていた。
服も新しくはなかった。
どこにでもいる少年だった。
けれど、その少年の目の前には、何もなくなったあとの町が広がっていた。
そして町は、音を立てずに、もう一度始まろうとしていた。
第5章 町を作る人
「働けば、食べられる」
清視少年は、そう思っていた。
けれど戦争が終わっても、食べ物はすぐには戻らなかった。父が働いていても米が手に入るとは限らず、母は配給でもらったわずかな食べ物を、今日と明日、その先の分まで考えながら分けていた。
学校の昼休みには、いったん家へ帰った。何かあれば口に入れ、何もなければ水を飲み、また学校へ戻る。
「行っておいで」
母は、いつもと同じ声で送り出した。
島根で空腹に耐えた少年は、大阪へ戻ってからも、食べ物が現れるのを待った。
けれど、町は待っているだけでは戻らなかった。
焼け跡では、人々が瓦礫を運び、柱を立て、道を直し、切れた電線をつないでいた。昨日まで何もなかった場所に壁ができ、屋根がかかり、やがて人の暮らしが戻ってくる。
町は、誰か一人が作るものではなかった。
一本の柱を立てる人がいて、線を引く人がいて、その先に電気を通す人がいる。多くの人の仕事が重なり合って、町は少しずつ形を取り戻していった。
清視も、その町を見ながら大きくなった。
戦争の間、学校で覚えたのは、槍の使い方や手旗信号、空襲の時に身を伏せることだった。戦争が終わって初めて、数字や形、電気や機械の仕組みを学ぶようになった。
紙の上に引かれた一本の線が、どこへ続き、何を動かすのか。
清視は、そうしたことを考えるようになった。
やがて学校を出て、社会へ出た。
仕事では図面を広げ、線を引き、現場を歩いた。紙の上ではわずかな違いに見えるものが、実際の建物や設備では大きな違いになるため、何度も確かめ、間違いがあれば引き直した。
その仕事は、やがて日本を越えた。
清視は飛行機に乗り、世界中の町を渡り歩いた。言葉が通じない場所でも、図面を広げ、線や数字を指させば、相手と考えを伝え合うことができた。
世界もまた日本の復興に大変興味を覚えたため、図面は人間関係を築く上でも要になる。
島根の海を見ながら、海の向こうには何があるのだろうと思っていた少年が、いつの間にか、その向こう側を自分の足で歩いていた。
清視の仕事は、地下鉄の電気系統の設計へとつながった。さらに世界の目が日本に注がれた。
電車を動かす電気。
ホームや通路を照らす電気。
改札や案内板を動かす電気。
そして、何かが起きた時にも、すべての灯りが消えないようにするための電気。
地下では、灯りが消えることの意味が、地上とは違っていた。
ある日、建設途中の地下へ入った清視は、足を止めた。
壁はむき出しで、湿った土の匂いがし、工事用の灯りと灯りの間には深い暗がりが残っていた。
その時、西九条の家の防空壕がよみがえった。
畳の下で息をひそめ、外の音を聞いていた少年。
けれど今は、隠れるために地下へ入ったのではない。
ここに人を通し、電車を走らせ、灯りをつけるために立っていた。
「ここは、消えたらいけない」
清視は図面を見ながら言った。
非常時にも残る灯りの位置が加えられ、紙の上に短い線が一本引かれた。
その一本の線が、暗闇の中にいる誰かを、出口まで導くことになるかもしれない。
地下鉄は、一人では作れない。
土を掘る人、トンネルを作る人、線路を敷く人、駅を設計する人、電気を通す人、安全を確かめる人。
清視も、その中の一人だった。
完成した地下鉄のホームに、一人の乗客として立ったことがある。
会社へ向かう人、制服姿の学生、母親に手を引かれた子どもが電車を待っていた。
やがてトンネルの奥に二つの光が現れ、風とともに電車がホームへ入ってきた。
人が降り、人が乗り、電車は再び暗いトンネルへ消えていく。
周囲の誰も、清視が電気の設計に関わったことを知らない。
けれど、それでよかった。
誰かが仕事へ向かい、誰かが家族のもとへ帰る。その当たり前の暮らしの中に、自分たちが引いた線と、通した電気があった。
島根から帰ってきた時、何もなかった。
今は町の下を、今は電車が走り、暗い地下には灯りが続いている。
清視さんは、町を作ったとは言わなかった。
多くの人とともに、町を支える仕事をした。
それだけだった。ただ、仕事内容は大変だ、普通の量ではない。
九十三歳になって、清視さんは、自分が歩いてきた時間を静かに語っていた。
寿栄コミュニティセンターの一室。
テーブルの上には、録音機が置かれていた。
「一人で作ったわけではありませんよ」
清視さんは、少し笑った。
「私は、地下鉄の電気系統の設計図を書いただけです。」
少し黙ってから、窓の外に聞こえる人の足音へ耳を傾けた。
「町いうのは、人が歩いて、人が集まって、それで町になるんでしょうね」
そして、遠くを見るように言った。
「私が帰ってきた時は、何もなかったですから」
家はなくなっていた。
けれど、母がいた。父がいた。弟がいた。
「親が生きていた。それは大きかったです。家はなくなっていましたけどね。人はいた」
その言葉のあとに、静かな時間が流れた。
「楽しい記憶はあるか、と言われたら、楽しい記憶はないですね」
清視さんは、テーブルの上に置いた手を見た。
「けど、覚えています。忘れようと思っても、残っているんです」
そして、
「今を生きる子どもたちに、同じ記憶を背負わせてはいけない」と、
静かに続けた。
「ただ、そういう時代があったということは、知っておいてもらったらいい」
暗闇の中から、やがて世界中を歩き、光をとどけました。
あの日の光が、今も清視さんの瞳の奥で、少年がのぞいていました。