丘の上に風が通るたび、土と草の匂いがふわりと立ちのぼった。
松江の田舎で育った私は、その匂いと一緒に食卓の記憶を思い出す。
夕方になると、母は畑から戻ってきた。腕には土のついた大根や青菜、籠にはまだぴちぴちと跳ねる魚。台所では味噌の香りが立ち、ことことと煮付けの音がする。
やがて、丸いちゃぶ台の上には、鉢いっぱいの料理が並んだ。母の手作り味噌の汁、しっかり味の染みた魚、浅漬け、そして産みたての卵。どれも特別ではないのに、胸がいっぱいになるほどのごちそうだった。
四人で囲むその食卓は、まるで小さな町のようだった。
父の笑い声、母の「もう一口食べなさい」という声、湯気の向こうで揺れる家族の顔。
秋になると、軒先には干し柿が並び、橙色の列が夕日に透けて、まるで空に浮かぶ灯りのようだった。
あの頃、母は毎日、町を作っていたのだと思う。
食卓という、小さくてあたたかな町を。
――
今、私はその台所に立っている。
レパートリーは増えた。肉料理も、魚屋で選んだ刺身も、時にはインスタントも並ぶ。
仕事から帰った夫と交代で夕食を作ることもある。
お酒を飲みながら、今日の出来事をぽつぽつ話す夜もある。
便利になったぶん、どこか軽くなった気もする。
けれど、ふとした瞬間に、あの味がよみがえる。
味噌の香り。
煮付けの甘辛い匂い。
丸いちゃぶ台の向こうにいた、母の背中。
「こんなに作らなくてもいいのに」
そう思いながら、私はつい鍋を大きくしてしまう。
少し多めに煮てしまう。
理由はわからないけれど、たぶん、あの町の名残だ。
――
未来のことを考えると、正直に言えば、少し疲れている。
「もう作りたくないな」
そんな日も、きっと増えていくのだろう。
けれど、もし誰かが食卓に座ってくれるなら。
もし、湯気の向こうで笑ってくれる顔があるなら。
きっと私は、また鍋に火をつける。
大きなことはできない。
立派な料理も、毎日は無理かもしれない。
それでも、一皿一皿を並べていく。
母がそうしてきたように。
この町を、静かに受け継ぐように。
窓の外に目をやると、夕焼けが広がっていた。
あの日の干し柿の色と、同じだった。
私は少しだけ笑って、味噌を溶いた。
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